洋食器事始め その漆 ~燕の誕生

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、歴史・晩秋にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

この老舗は歴史の荒波のなかで幾度も困難にぶつかり、そのたびに力強く再起し、さらなる飛躍をしてきました。しかし、関東大震災で受けた痛手は相当なものがあり、ほどなくして店を畳まざるを得なくなったのでした。

2023年11月1日コラム

津波目から燕へ

日本の洋食器業界をその黎明からリードしてきた十一屋商店。

こうして半世紀にわたる歴史に幕が閉じられたわけですが、もちろんそれを惜しむ声は多くありました。なかでも、新潟・燕の金物商であった捧吉右衛門(ささげ・きちえもん)は十一屋の暖簾をこのまま絶やすことに強く反対した一人でした。彼が二代目木村新太郎の息子たちを親身に説得しなければ、新生十一屋としての再出発はありえなかったといえるのです。

今回のコラムでは、十一屋と捧吉右衛門の出会いに迫ってみたいと思いますが、まずは燕そのものの歴史から一瞥してみましょう。

新潟県の中央部、広大な越後平野の一都市として発展してきた燕。その歴史は日本一の大河・信濃川に合流する中ノ口川の河口周辺に人びとが住み着いたことからはじまります。

古くは「津波目」と呼ばれていたことが、室町時代ごろの記録にみえます。本来は、水辺の土地柄を表す地名だったようです。

これに「燕」の漢字があてられるようになるのは、どうやら江戸時代のことです。当時、燕は江戸幕府の天領つまり直轄地でした。金属工業との最初の結びつきが生まれたのは、この江戸期にさかのぼります。

モノづくりの起源

ところで、越後平野は信濃川が運んでくる土砂によって形成されおり、古来より水害が多発した土地でした。燕も例外ではなく、それゆえ住民に対する救済と生活の向上が大きな課題だったのです。

そこで燕を治めた代官は、釘づくりを地場産業として興す施策を図ることにしました。というのも、そのころは幕府開闢からまだ20年ほどで、江戸の町づくりのために大量の釘を必要としていたからです。

水運に恵まれた燕は、江戸という巨大な市場に商品を供給するうえで地理的な有利さをもっていたといえます。ただ、それまでに本格的な金属加工の技術があったわけではありませんので、江戸から釘職人が招かれ、一から技術移転が図られたのでした。

こうして燕は釘の産地として知られるようになります。一方でその後次第に、扱う製品のバリエーションも増えていくことになります。

釘の原料である鉄を使って鋸などの農機具が作られたり、またそれらの目立てをするためのヤスリなども生産されました。

そうしたなか、燕の金属工業にとって重要な転機が元禄時代にありました。燕からほど近い弥彦山のふもとに間瀬銅山が開かれたのです。これによって銅の入手が容易となり、それを用いたさまざまな製品が作られるようになりました。

洋食器との邂逅

とはいえ、江戸期以来の燕の主力品は、なんといっても釘でした。一時は釘の全国シェアの8割は燕産だったといわれます。

ところが、明治期に入ると、和釘よりも使い勝手の良さで優る洋釘が大量に出回るようになったことで、燕のモノづくりは大きな打撃を受けました。

そこで、農機具やヤスリやキセルなど、釘以外のモノづくりへと主軸を移していかざるを得なくなったのです。そうした模索のなかで、たとえば一枚の銅板を鎚で叩いて成形していく伝統の技術「鎚起」(ついき)を用いた銅器を海外向けの高級品として生産する取り組みもなされたのでした。

実は、十一屋は早くから燕の銅器を取り扱っており、その仕入先が「捧吉右衛門商店」だったのです。この金物屋は初代捧吉右衛門が宝暦元年(1751)に創業したもので、十一屋と深く交わったのは八代目当主の吉右衛門でした。

ちょうど、十一屋がランプ商から脱皮しようとしていたころに、同じく文明開化の煽りを受けて岐路に立たされていた燕の金物商とが出会い、大きな化学反応を起こすことになったのです。

その直接のきっかけは、日本石油(ENEOSの前身)の創業者で「日本の石油王」と呼ばれた実業家・内藤久寛が十一屋に36人分の高級洋食器を注文したことにありました。

当初十一屋は、東京の下請け業者に発注したものの、満足のいくものができませんでした。そこで代わりとなる業者を探した結果、捧吉右衛門商店に白羽の矢が立ったのです。これまで洋食器の取り扱いはなかったものの、優れた銅器を納入してきた実績が買われたのです。

すぐに十一屋の店員が燕に赴いて捧吉右衛門に直接事情を話し、そして長年吉右衛門商店の下請けとして高級銅器の製造に携わってきた玉英堂の工場を視察したうえで、正式な発注にいたりました。

これが、いまや世界的な洋食器産地である燕における洋食器づくりの幕開けでした。明治44年春のことです。

ただし、これを発端としてその後も十一屋などからの注文が次々と入った、というわけではありません。石油王の食器制作は、あくまでもイレギュラーなものに過ぎませんでした。

にもかかわらず、八代目捧吉右衛門は、洋食器との出会いに可能性を見いだします。当時の燕は、和釘が廃れるだけでなく、アルミ製品が家庭用品の分野に進出して存在感を増し、さらには第一次世界大戦の勃発で銅の価格が高騰するなどして、ますます苦境に立たされていました。

起死回生の一手を模索していた吉右衛門は、十一屋との交流などから洋食ブームが到来しつつあった世情の動きを感じとり、本格的な洋食器製造へと舵を切っていくのです。

その捌へつづく

捧吉右衛門『日本洋食器史 燕が歩いた六十年』(叢文社、1972年)

同『日本洋食器史年表』(叢文社、1972年)

燕市『燕市史 通史編』(1993年)

日本金属洋食器工業組合https://www.youshokki.com/

中川政七商店編『燕三条の刃物と金物』(平凡社、2016年)

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。