この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のバイヤー・竹本が、ラリック・ヘレンド・歴史にまつわるエッセイを綴りました。
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2025年の万国博覧会の開催地が大阪に決定しました!1970年の前回大会より55年ぶりに大阪で万博が開催されます。万博は世界中の人と物が出会う場所。最新のテクノロジーや、未来の暮らしなど、世界の今と未来が、一つの場所で見られると思うと、今からワクワクしますね!
万博といえば、最先端技術だけでなく、各国の伝統工芸品、次の流行を作るアートなど、人々を驚かせる新しいもの、珍しいものが発表される場でもあり、各国が、自国の産業より意匠を凝らした新商品を発表したため、生活用品である洋食器も競って出品されました。
そもそも、万博とはどういったもので、いつごろから始まったのでしょうか?
万国博覧会の歴史は1851年のロンドン博覧会に始まるとされています。ヨーロッパでは中世のころから、定期市や、見本市といったフェアは開かれていましたが、国内の博覧会にとどまっており、諸外国を招いて、大規模に開かれ、しかも大成功したのは、ロンドン万国博覧会が初めてでした。これは19世紀になり交通網が発達し、人や物の長距離の移動が可能になったことと無縁ではありませんでした。このロンドン万国博覧会は、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公が、開催に熱心であったことでも知られ、大成功をおさめイギリスに莫大な利益をもたらしました。この博覧会で、当時無名のハンガリーのヘレンドが持ち込んだ、牡丹の花と蝶の絵柄の食器が、ヴィクトリア女王の目に留まり、女王が注文したという話は洋食器ファンの間ではよく知られています。このシリーズは、女王の名を取ってヴィクトリアと名付けられ、今でもヘレンドのトップセラーとなっています。
万国博覧会は、近代の商品社会の中で、重要な役割を果たすことになりました。それは工場で生産された製品の展示が行われるようになったからと言えます。商品の展示による商工業の発達にいち早く注目したのはフランスだと言われています。ルイ14世の時代から、サロンと呼ばれる美術展覧会の経験があるフランスは、もっともはやくアートを商品化することに成功しました。万博は工業製品を中心としていましたが、フランスの万博ではアートの要素も重要でした。
19世紀の万博は、フランス、パリの独壇場でした。1855年の初開催以降、約11年ごとにパリで万博が開催されますが、その中でも1889年のパリ万博は、万博の歴史上、最も有名で華やかなものになりました。この万博の中心は機械宮殿と、エッフェル塔でした。エッフェル塔は、その奇抜な外観から、パリの街にふさわしくないと建設反対運動がおこった話は有名です。万博が始まったころにはまだエレベーターが完成しておらず、人々は塔に登れなかったのですが、来場者から不満の声が高まったため、階段での一般公開に踏み切り、人々は1710段の階段を昇って上がったそうです。
しかし、アートの観点から最も有名な万博は、1900年のパリ万博だと言われています。それは、万国博覧会が一つのアートスタイルであるアール・ヌーヴォーを、世界に広めたからです。特に1900年のパリ万博で公式にアール・ヌーヴォーが取り上げられたということではなかったのですが、各国で始まったスタイルがパリ万博で一堂に会する絶好の機会となったのでした。万博のために建設されたグランパレやプチパレは、ロココやルネッサンスなどのアカデミックな様式で建てられていましたが、細部は曲線に富んだアール・ヌーヴォーのデザイナーたちが自由で楽しいデザインを繰り広げていました。
パリ万博のアール・ヌーヴォーの中心は、サミュエル・ビングのパヴィリオンでした。ビングは、パリに店をひらき、新しいデザインを展示している美術商でした。ビングはパリ万博の自分のパヴィリオンに、アール・ヌーヴォーのアーティストの作品を並べ、その中にはルネ・ラリックの作品もありました。
ラリックや、ナンシーのエミール・ガレの作品はパリ万博で高い評価を受けています。特にラリックが世界的に有名になったのは、この1900年のパリ万博だと言われています。ノーブルで扱っているガラス製品の歴史から見ても1900年のパリ万博は、一つの頂点だったと言えるでしょう。
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