ニッポンの洋食 その壱

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、立春にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

時間のあいまについつい観てしまうYouTubeですが、このところそれがきまって料理番組ものになってきていることに、自分でも少々驚いています。

2023年2月1日コラム

料理動画の効用

凝ったような料理を日ごろから作る趣味もないものの、たまたま某有名シェフの動画を覗いてしまって以来、どうやらハマってしまいました。

毎日の営業で使っているぴかぴかのキッチンで、シェフが解説しながら手際よく食材を切り分け、巧みに調理していく様子は、観ていて単純に面白く、五感すべてを心地よくくすぐります。

日本料理、フランス料理、イタリア料理、中国料理、ありとあらゆる分野の料理動画がありすぎて、一生かかっても観きれないほどです。とくにパンデミック以来、厳しい外食事情を反映して、多くの料理人が動画配信に参入しました。

料理の紹介はもちろん、普段は見ることのできない一流店の厨房の様子を垣間見られるなど、どれも興味深いものですが、やはりなかでもプロならではのテクニックを惜しげもなく披露する調理解説は花形ではないでしょうか。

とはいえ、家庭でも取り入れられるように、近所のスーパーで手に入る食材と簡単な調理器具を使う心づかいを利かしたものが多く、とても身近でありつつもプロのひと手間が冴えわたった逸品が完成すると、画面越しに涎が垂れそうになるわけです。

じっさいに動画を真似して自作してみると、いつもとは一味も二味も違う出来になるように思えます。このまま毎日視聴と実践を繰り返せば、自分もひとかどのシェフになれるのではないかと錯覚を起こさせるところも、料理動画の面白いところかもしれません。

洋食といえば…

また、ときにシェフたちは料理指南のあいまに、食の道にはいった動機やこれまでのさまざまな経験談、そして師弟の関係や仲間のつながりといった話題を語ることがあります。

あまり馴染みのない業界の奥深い人間関係の系譜を知る機会はそうはありませんので、こうした話を聴くことができるのは、貴重なことともいえます。

たとえば、先日視聴した動画では、あるフレンチのシェフが「ムッシュ村上」との個人的な交流を細かく語っているところに出会いました。お話のそこかしこに、当時の日本における西洋料理の世界の息遣いのようなものが感じられ、ひとつの時代の証言としてとても興味深い内容でした。

ところで、ムッシュ村上すなわち村上信夫シェフといっても、若い世代には馴染みが薄いかもしれませんが、一方で懐かしく思い出される方も多いと思います。

1960年代にNHKテレビ「きょうの料理」の名物講師として西洋料理を庶民の家庭でも親しめるように工夫して広く紹介したことで知られる村上シェフ。帝国ホテルの料理長(第11代)を長く務めたほか、1964年の東京オリンピックでは選手村食堂のひとつである「富士食堂」の料理長として指揮を執るなど、名実ともに日本を代表するフレンチシェフでした。

日本の御茶の間にも浸透し一時代を画した人物だけに、洋食といえば、恰幅のよい体にコックコートとコック帽をまとい、お鬚の風貌でにっこりとほほ笑む「ムッシュ村上」、というイメージがいまでも根強くあることも頷けます。

ムッシュと冷凍食品

ただ、かく言うわたしもムッシュの活躍をリアルタイムで目にしたことはありません。そこで興味をもって、彼の自伝を手に取ってみると、まずはその波乱万丈な人生に驚かされました。

大正10年(1921)に東京神田の小さな食堂を営んでいた家庭に生まれたムッシュは、幼くして両親を相次いで亡くして孤児となり、そのとき父親と同じ料理の道に入ることを決意。尋常小学校に通いながら浅草にあった「ブラジルコーヒー」で住み込みの下働きをはじめ、その後レストランやホテルを渡り歩き、最後に憧れの帝国ホテルの厨房に入ることになります。

戦争がはじまると、先輩から贈られた包丁とフライパンをもって戦地に赴き、陸軍砲兵隊の照準手として死線を潜り抜けるも、戦後はシベリアに抑留されて辛酸を舐めることになります。ただそうしたなかでも、自らの料理によって戦友たちを励まし、日々の困難を乗り越えていきました。「芸は身を助く」とはよく言ったものです。

なかでも、とくに興味深いエピソードは、シベリア抑留中のものです。冬場には氷点下30度以上にもなる環境ですので、食材はことごとく凍ってしまいます。ムッシュは過酷な労働作業をこなしながらも、持ち前の探求心を発揮して凍った食材をどうすれば味を落とさずに解凍できるかを研究したのです。

驚くべきことにこのときの経験が、東京オリンピックの選手村食堂で大いに役立つことになりました。選手村では毎日大量に調理しなければならないため、当時はまだそれほど一般的ではなかった、食材の冷凍保存が用いられることになり、そこでムッシュのノウハウが遺憾なく発揮されたわけです。

オリンピックの開催直前、冷凍と生鮮それぞれの素材で作った料理を食べ比べる試食会が開催されたとき、オリンピック担当相の佐藤栄作から、どちらの料理も美味しいと太鼓判を押されました。東京五輪開催期間中、毎日7千食、のべ60万食にものぼる食事を滞りなく供給し、大会の成功を裏方から支えることができたことには、ムッシュの波乱万丈の半生が大きく関わっていたのです。

ニッポン洋食の系譜

こうしてみただけでも、ムッシュ村上が戦後の洋食史において欠くことのできない人物であることが改めて認識できます。

もっとも、その人生の軌跡からは、彼を偉大な料理人へと押し上げていく大きな力が明治以来連綿と続いてきた先人たちの切磋琢磨にあったことも、しっかりと感じ取れます。

たとえば、幼きムッシュが下働きに入ったブラジルコーヒーの料理長は、上野の精養軒で修業した人物でした。その彼から西洋料理の最初の手ほどきを受けたのです。しかもその後この料理長は、自分の修行仲間で当時は帝国ホテルと同じ系列であった東京会館の二番シェフを通じて、ムッシュの帝国ホテル入りを後押しすることにもなったのでした。

上野の精養軒や東京会館といえば、帝国ホテルと同様、日本の洋食の伝統をいまに伝える老舗中の老舗です。もちろん、このほかにも洋食の黎明を支えた名店が多くあり、互いに鎬を削ってきました。こうした場所で培われてきた技術や人脈というものが積み重なって現在の日本の食文化の一端を形づくってきたわけですが、このあたりのことについては、また回を改めて書いてみたいと思います。

その弐へ続く

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ABOUTこの記事をかいた人

「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。