この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、歴史・夏にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
京都の街は次に控える大きなイベント、五山送り火を前にして、盛夏から晩夏への移ろいを少しずつ感じる頃合いになります。
2022年8月1日コラム
コップの中の大文字
別名鱧祭とも呼ばれる祇園祭の賑わいもおさまり、8月に入りました。
東山如意ヶ嶽の大文字からはじまり、松ヶ崎の妙・法、西賀茂の船形、大北山の左大文字、嵯峨の鳥居形へと、お盆の京の夜空は順々に点灯する送り火に彩られていきます。
実は、ある程度近場からはっきりと複数の送り火を眺望しようとなると、西陣はなかなかの立地といえます。
文字通り京都のど真ん中に位置する西陣からは、最初の送り火となる大文字の東山如意ヶ嶽はまっすぐ東にあたり、そこから反時計回りに半円を描くように周囲の山々に火がともされていくことになります。
高層建築のない時代の西陣では、東山の大文字をコップの水の中に映すことができたといいます。面白いのは、その水を飲み干すと先祖が病気を持っていってくれるとの信仰があったそうで、8月16日の晩には町の人々が家々から表に出てきてご利益にあやかったといわれます。
船岡山と西陣織会館
いまでは高いビルも立ち並ぶようになった西陣で比較的気軽に送り火を愉しめる場所としては、やはり船岡山でしょうか。
標高112mほどの、山というよりはこんもりとした丘といえますが、平安京を造営するための起点となったという説があるほどですので、頂上からは京都市内が一望のもとに見渡せ、南面すれば直下に千本通が東寺の方向へ向かって一直線に伸びているのがはっきりと手に取るようにわかります。
ただ近年、山の木が鬱蒼としてきているようで、送り火を順々と眺めていけるかは少し心もとないところがあります。
そうなると、西陣地域のほかの眺望スポットとしては、有料とはなりますが、たとえば堀川今出川にある西陣織会館の屋上は、穴場といえるかもしれません。
船岡山からは南東に2㎞弱ほどでしょうか。7階建ての建物ですので、ここからであれば鳥居形以外の4つの送り火を臨場感をもって眺めることができます。
近代西陣の頂
さて、西陣織会館とは、西陣織を広く紹介し、職人の実演や制作体験のほか、商品の購入はもちろん着付けの教室などもある総合的な施設として、1976年に建てられたものです。
それ以前には程近くの今出川大宮にありました。この旧・西陣織会館は、日本のモダニズム建築の先駆者である本野精吾による設計で大正3年に建築され、現在は京都市考古資料館として利用されています。
一方、新館の建設は、西陣の織匠の第一人者であった山口伊太郎氏らが中心となり、1967年の西陣発祥500年を記念した事業として進められたものです。この大きな節目に当たって、太平洋戦争中の組織体制を残していた旧館の運営を清算し、また帯、着尺、毛織の3つの同業組合の鼎立状態を解消してひとつにまとめるというのが、山口氏らの念願でした。
新たな「オール西陣」のシンボルとしても新館が必要だったわけです。その後1973年に3つの同業組合は統合されて「西陣織工業組合」となり、新館の落成を無事迎えることができたのでした。
当時は高度経済成長の波にも乗って、西陣がたいへん活気のあった時代で、新館建設には多額の寄付金が集ったそうです。山口氏自身、新館のできた1976年は「今から思えば西陣が最も栄えた時代でした」と後年回想しています。
いってみれば、船岡山が京の歴史を画すひとつの頂だとすれば、堀川今出川の西陣織会館は近代西陣の歴史を画す絶頂そのものだったのです。
逆境の西陣史
ところが、その絶頂ゆえにでしょうか、西陣はこの1976年をピークにして斜陽の時代にはいっていくことになります。
生活の多様化とともに、和装をすること自体が急速になくなってしまったことは、西陣の織屋や問屋にとって致命的でした。かつては路地に一歩踏み込めば、機の音が盛んに聞こえたという西陣ですが、それも今や昔のこと。かつての京のメインストリートである西陣京極にも往時の面影はありません。
とはいえ、京の織物文化はいくつもの逆境に直面し、それを何度も乗り越えてきた長い歴史があります。もちろん応仁の乱もそうですが、たとえば江戸時代の西陣でも、街そのものが壊滅する大きな事件がありました。
江戸期においは、西陣の最盛期は元禄時代でした。江戸で大火が起きたことをきっかけにして西陣に織物の注文が集中するようになるなか、元禄期にはいって町人文化が興隆、豪奢な文化が花開くようになると、より一層西陣織の需要が高まることになったのです。
しかし、それから数十年たった享保15年(1730年)に、いわゆる「西陣焼け」と呼ばれる大火災が西陣を襲います。この大火によって西陣全域が火の手に包まれ、数千台の織機が消失するなど、未曽有の被害となりました。
生き残った織職人たちのなかには地方に移り住む者もあって、それによって西陣の高度な技術が各地に伝わることにもなりました。が、その一方で西陣織自身が元禄期のような活況を取り戻すまでにはいたらなかったのです。
西陣の息吹
その後も、幕末の混乱にくわえて、明治維新の東京奠都など、京都を取り巻く環境が激変に次ぐ激変に見舞われたことで、西陣の苦境は続きました。
しかし、ここで西陣の人々は自ら立ち上がります。
当時なにより西陣織に求められたのは、生産の近代化です。起死回生のためには、生産効率を上げ、なおかつ精巧な質の高い製品を量産できる技術が必要でした。そこで、西陣の青年たちを近代的な織物の先進国であったフランスに送り出し、その技術を学ばせることにしたのです。
西陣の期待を背負った青年たちは西洋の先進技術を体得し、そしてその後の西陣織を一新する「ジャカード織機」を持ち帰りました。
それまで西陣で用いられてきた「高機」(たかばた)は、人が機のうえに乗って経糸を引き上げるというものでしたが、このフランスで発明された最新の織機はその手間を必要とせず、自動で経糸を操ることができるものでした。
ジャカード織機の導入は、西陣の地で代々受け継がれ洗練されてきた伝統的な織の技術をいっそう高度化しました。それは西陣織を、質と量において他を圧倒する存在として復活させることに大きく貢献したのです。
こうしてみると、西陣織の歴史は、京の歴史そのものといえそうです。幾重にも折り重なった小宇宙が西陣であり、西陣織なのでしょう。
地理的にも都の成り立ちからその中心に位置したこの地域は、都市全体の命運とまさに一体となって浮き沈みを経験してきました。古代から現代にいたるまで、「工作人の街」たる京都の地には何度も再生を興す底力が秘められており、それが西陣織にも力強く息づいているように思えてなりません。事実、いままた新たな西陣織の魅力を創造し発信すべく、さまざまな努力がなされています。
今年は、西陣の名称が生まれて555年の節目とのことで、西陣織会館をはじめ京都市内各地でさまざまな催しが企画されていますので、これを機会に西陣と西陣織の新しい息吹を感じてみてはいかがでしょうか。
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