小宇宙としての西陣 その壱

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、歴史・梅雨にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

閑散としていたころとくらべて、人の出がある程度戻ってきて活気めいている様子も手伝ってでしょうか、見慣れたはずの大きな赤い鳥居のある風景がどことなく新鮮に感じられます。

2022年6月1日コラム

工作人の街

先日、ひさかたぶりに京都の岡崎界隈を散策することができました。

ひとの流れに乗り、美術館をはしごして作品をひとつひとつながめても、やはりどこか新鮮な、というよりも、なんだか不思議な感覚すら漂います。

もっとも展示の内容がそう感じさせるのではなく、おそらく、ここ2年以上にもおよぶ自粛とステイホーム型の生活によって、モノを見るとか、モノと関わるという人間にとって本源的な行為そのものが、かなり大きな影響を受けた所為かと、あくまで個人的な印象ですが、そのように思われました。

秦の始皇帝陵の兵馬俑が壮麗に並んでいるかとおもえば、森村泰昌氏の写真作品の数々に現代映画のポスターアート、あるいはポンペイのモザイク、壁画、日用品に近世日本の美人画、さらには微細な細工をもったコンテンポラリージュエリーなどなど…。

少しあたりをうろうろしただけで、次から次へと、よくぞここまで洋の東西、古今を問わず、人類はモノを作り続けてきたものだと感嘆せずにはおられなくなります。人間とはまぎれもなく「ホモ・ファーベル」(工作人)である、との思いが自然と沸き起こります。

人為と歴史

美術館をでて、巨大な赤鳥居をあらためて見上げると、そういえばこれも人の手によるものだったかと、なぜかギョッとしたのもつかの間、その下に走る道路からはじまって、目に入るものことごとくが人工物であることの異様さに愕然とする始末です。

慌てて南禅寺方面に脱出し、うろうろと歩き回り、板塀に囲まれた小道を抜けた先に風雅な御庭を見つけて、ぼんやりと眺めて心を落ち着かせてみても、それが稀代の庭師「七代目植治」小川治兵衛の傑作というわけですから、もうどこにも逃げ場なしと観念するほかありません。

いうまでもなく、そもそも都市というもの自体が人為的に作りだされたものですが、なかでも千年以上、都としても機能してきた歴史深い京都は、街のすみずみにまで、人為がゆきわたり積み重なって現在に至っているといえます。じっさい、碁盤の目のどこを掘り返しても何かしらの遺物に遭遇することになるわけです。

京の道のそれぞれに個性があり、一筋ちがえばまったく異なる趣があって、またもちろん地域ごとにも歴史に育まれた独特な「顔」があります。徹底的に人為を尽くしつつも、多様性を失っていないというところが、多くのひとにとって何度でも足を運びたくなる街の魅力ともなっているのでしょう。

さきほどの南禅寺周辺の地域にしても、東山を借景とした庭と豪奢な邸宅をほこる日本を代表する高級別荘地として、世界的にも知られた実に個性的な場所です。

とはいえ、その歴史は意外にも浅く、明治期に琵琶湖疎水の開通にともない、当初は工業団地が計画されていたところに、明治の元勲である山縣有朋らが別宅として開発したことにはじまります。

要するに、まったくの近代的な遺産というわけですが、京のもつ摩訶不思議な力によって、古来より連綿とつづく伝統的な日本の美を伝えるオーソドキシーとしての地位を獲得しているといえます。

京文化の最古層へ

では、京の歴史を大きく俯瞰して、その人為の源、真のオーソドキシーはどこにたどることができるのでしょうか。千年の都のモノづくりの原点といえる場所はどこにあるのでしょうか。

おそらく、その謎をとくひとつのカギは、「西陣」にあるのではないかと思うのです。

言わずと知れた織物の産地である西陣。京のモノづくりを語る際には、当然避けては通れぬ存在です。実際その歴史はとても古く、いまだ西陣の名もない平安時代にもさかのぼることができます。

当時、朝廷は絹織物の技術者たちを「織部司」(おりべのつかさ)として組織し、織部町と呼ばれる場所に住まわせました。この地は現在の上京区上長者町あたりとみられていますので、まさに西陣地域に位置するのです。

とはいえ、実のところ、都が置かれるはるか以前、この大きな盆地に原初の文化が形成されようとするときから、絹織物は重要な存在だったとみられます。

おそらく、古代に日本へと渡来してきた秦氏が大きく関わっているのでしょう。彼らは現在の太秦あたりを本拠とし、養蚕や機織の技術をもたらしたとされます。いまでも太秦の一角には、市内のお社のなかでも非常に古い、秦氏ゆかりの木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)があります。通称「蚕の社」(かいこのやしろ)とも呼ばれますが、その由来は本殿に向かって右隣りに蚕養神社(こかいじんじゃ)が祀られていることにあるようです。

このように、京を形作るモノづくりの最古層には、たしかに絹織物文化があり、そこから長い年月をかけて地上へと水が湧き上がるようにして、現在までの西陣織の歴史が脈々と築かれてきたように思われるのです。

その弐へつづく

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。