洋食器事始め その弐

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、皿・梅雨にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

ところで、日本ではじめての「肉食禁止令」が出されたのは、いまから1300年以上前、天武天皇の時代であったとわれます。

2023年6月1日コラム

肉食禁止の千年

天武四年、西暦675年のことで、牛・馬・犬・猿・鶏を殺生し食べてはならぬ、という勅令でした。

肉食が禁止された理由については、しばしば仏教の影響が挙げられます。しかし実際のところは、仏教伝来よりも古くから日本にある信仰が関係しているようです。

つまり、疫病の流行や旱魃といった自然災害など、人びとを苦しめる天変地異を神々の怒りのあらわれとみて、それを鎮めるために飲食などの行動を慎むという、いわゆる「物忌」(ものいみ)だったと考えられます。

事実、この勅令は、4月から9月の農繁期のあいだだけ肉食を禁じているので、農事をすべて滞りなくおこなうことができるように実践された「肉食断ち」というのが自然な見方だといえます。

このように当初は禁欲に関わることだったものが、その後たしかに仏教の影響もあって、徐々に肉食が禁忌となり、繰り返し禁止令が出されました。もちろん、滋養をつけるための「薬食い」などと称してこっそり食べることはありましたが、公けには長い年月のあいだ肉食はタブーとされてきたのです。

このタブーが明治になって破られることになります。

先に述べたように、明治2年には政府によって食肉や乳製品を製造販売する「牛馬会社」が設立され、翌年には福沢諭吉が肉食を勧めるパンフレットをこの会社から出版するなど、国策として肉食の普及が図られました。

そしてついに、明治5年になって、明治天皇がお肉を食されたという報道が新聞紙上に現れます。千年のときを経て、天皇ご自身が肉食を解禁されたというニュースは、国民に新たな時代の到来をはっきりと認識させる一大インパクトであったことは想像に難くありません。

さらに明治6年8月、イタリア国王の甥を招いた宮中晩餐会が催され、そこではじめてフランス料理が供されました。明治政府がこのイベントに照準を合わせて宮中における西洋料理の受容を着々と準備してきたことがうかがえます。

ちなみに、このときの晩餐会のために、事前に宮中で西洋料理作法の講習会が開かれ、これをひとつのきっかけとなって国産の洋食器の必要性が高まったことも、先のコラムで触れたところです。

いずれにしても、こうして天皇自ら西洋料理を食すことで、近代日本の姿勢を内外に明確に示すことになりました。

とはいえ、明治に入って諸外国との交流がますます盛んになるなか、これ以前にも皇族が外国使節を西洋料理によってもてなすということはあったようです。

たとえば、明治3年の天長節つまり天皇誕生日(旧暦9月22日)に、各国の公使などを招いた饗宴が小松宮嘉彰親王の参列のもと開催された際、西洋料理が振舞われたといわれます。ただし、どんなメニューであったかは定かではないようです。天皇の「肉食解禁」以前のことですので、肉料理は提供されなかったのかもしれません。

また、このとき会場となったのも、皇居宮殿ではなく「延遼館」でした。

延遼館とは、かつて東京の浜離宮(現在の浜離宮恩賜庭園)内にあった、近代日本最初の迎賓施設です。もとは旧幕府の海軍伝習所関連の建物だったものを、明治2年に改装。外国要人の接待所などとして明治22年ごろまで使用されました。

こうした性格の施設ですので、当然のことながら西洋料理を提供する頻度は高くなります。したがって、日本製の洋食器で諸外国の賓客をもてなそうとする動きも、この延遼館を中心に活発になっていったようです。

国産洋食器のはじまり

実際、はやくも明治4年に、延遼館を管轄する外務省から佐賀の窯元に対して洋食器が発注された記録があります。

そのとき生産された皿とみられる現物も、当時の姿のまま残っています。すなわち、「延遼館備」と銘の入った「色絵金彩人物花鳥文食皿」。鍋島藩の御用をかつて務めた南里窯で製作されたものです。

見込みに白地を多くとり、中央には若干の花鳥だけをあしらうなど、西洋の伝統的なスタイルを踏襲しつつ、そこに和の意匠を融合した優美な作品です。

また、京都の名工、幹山伝七に発注した洋食器も現存しています。

伝七は尾張瀬戸の生まれで、彦根藩に請われてその御用窯である「湖東焼」にたずさわったあと、京都に移って清水に窯を築いた人物です。彼は積極的に西洋の顔料を用いたり、いち早く磁器の生産を軌道に乗せるなど、京焼を大きく革新したことでも知られます。

いまに伝わる「延遼館備」と銘の入る伝七の絵皿は、口縁部分にのみ日本の花鳥が描かれ、見込みは白一色となっており、こちらも洋食器の基本を忠実に守ったデザインとなっています。

このように延遼館は、日本独自の洋食器のあり方を生みだした、実に特筆すべき存在であったといえるでしょう。

時を超える「精磁会社」の粋

その後、洋食器の国産化にますます拍車がかかっていきます。

とりわけ明治10年に開催された第一回内国勧業博覧会直後に、明治天皇が諸官庁に対して舶来品に代えて国産品を使用するよう奨励したことが大きく影響しました。

これを機に宮内省も国内各地の産地に対して洋食器の発注をおこなうようになります。たとえば、有田の香蘭社のようにいまに続く窯元もそのうちのひとつです。

また、その香蘭社から分離独立し、わずか十数年しか活動しなかったものの、皇室御用達の逸品の数々を生み出した、知る人ぞ知る窯元がありました。

その名を「精磁会社」といいます。

その技術力の高さは、フランス・セーブル製の陶器をモデルにした葡萄鳥獣文様の洋食器を手掛けるなど、宮内省からの難しい注文をよくこなしたことにも表れています。

とりわけ注目すべきは、同社が葡萄鳥獣文様の作品のあとに宮内省に納めた「桐御紋菊型雷紋」の洋食器でしょう。

皇室の副紋である桐の御紋をあしらったこの作品。実は、現在の宮中晩餐会において使用されている菊御紋の洋食器のもとになっているものなのです。

精磁会社は短期間しか存続しませんでしたが、そのあとを有田の窯元たちが引き継いで製作を続けたこともあり、約150年のときを越えていまでも宮中晩餐会のテーブルのうえに国産洋食器黎明期の姿がしっかりと受け継がれることになったのです。

その参へつづく

参考文献:中澤克昭『肉食の社会史』(山川出版社、2018年)、長佐古美奈子「宮中晩餐会の歴史的考察 その(一)」『学習院大学資料館紀要』26(2020年)、小松大秀編『華ひらく皇室文化—明治宮廷を彩る技と美—』(青幻舎、2018年)、『婦人画報』2018年4月号。

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。