この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、マイセン・茶碗・立春にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
現在、日本において国宝の扱いを受けている陶磁器は14点ほどありますが、そのうち日本で作られた茶碗となると、ふたつのみとなります。
2022年2月1日コラム
卯花墻と不二山
桃山時代の作とされる「志野茶碗 銘卯花墻」(しのちゃわん めいうのはながき)、本阿弥光悦による「楽焼白片身変茶碗 銘不二山」(らくやきしろかたみがわり めいふじさん)の二品。
このうえなく有名な両碗ですが、興味深いのはそのどちらも「白」を基調としている点です。
卯花墻は、白色の百草土(もぐさつち)を素地として、そこに白濁した釉薬、つまり志野釉がかかって、まさに卯の花つまり白く咲くウツギの花の垣根の様子になっています。また光悦のものは、いわゆる「白楽」ですので、こちらも白土に白釉をまとっており、銘のとおり雪をいただく富士の峰を思わせます。
和物の茶陶の頂点として双璧のごとくそびえたつ存在が、黒でも、茶でも、緑でも、赤でもなく、白だということは、この色にこそ、日本の焼き物における独創が秘められているということなのかもしれません。
志野の白
たしかに、志野焼の白さは、それ以前の日本の陶器にはないものであり、また粉引といった朝鮮半島伝来のものとも、大きく趣の異なる色合いだといえます。世界的に見ても、その独特な白みは稀有なものといえますが、いつどのように誕生したのかについてはまだわからないことが多いようです。
とはいえ、やはり白に対する執着は、中国の白磁への憧れというものを抜きには考えにくいように思われます。よく知られているように、マイセンがヨーロッパで最初に磁器の焼成に成功したのは、中国白磁の肌を再現することに憑りつかれ、血道を上げたからにほかなりません。
室町から桃山にかけての日本の作り手たちも同様の熱に浮かされて、試行錯誤のなかで志野焼が誕生したのかもしれないと考えると、時空を超えてユーラシアの両端で共鳴するクリエイティヴィティの精神が目に見えるようです。
ところで光悦は、二代目楽吉左衛門の常慶と親しく交流し、彼から楽焼の技法を学びました。そして常慶は、志野焼を参考にして楽焼に白釉を取り入れ、白楽を創始したといわれています。光悦の白楽茶碗も、もとをたどれば志野の白に行き着くというわけです。
荒川豊蔵と志野
これほど日本の美術工芸史において特筆すべき存在である志野焼ですが、江戸時代には廃れてしまいました。江戸期に入り、日本でも磁器の生産がはじまったことをきっかけに、バトンを手渡してそのまま表舞台から去っていったような印象を感じさせます。
その志野焼の失われし伝統がひょんなことから蘇ることになったのは、大きく時代が下って、昭和になってからのことでした。それは北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯でマネージャーのような仕事をしていた荒川豊蔵が、故郷の美濃の山中で古い志野焼の窯跡を発見したことにはじまります。
古志野は瀬戸で焼かれたというのがそれまでの通説でした。しかし荒川は、魯山人とともに訪れた名古屋で古物商から見せられた古志野に、瀬戸では用いない道具土がついていることを発見します。その気づきをそのままにせず、すぐさま検証したことで、荒川は古の焼き物へと通ずる閉ざされた扉を押し開けることになったのです。
しかも彼は、作陶に関してはそれほど経験をもっていなかったにもかかわらず、そこから一念発起して自ら古志野の再現にも取り組みます。そして長年の艱難辛苦の末に見事成し遂げたのでした。
白天目は志野か
のちに人間国宝となる荒川は、まさに志野焼の第一人者であったわけですが、その彼が志野焼のなかで最も古いものを「白天目」だと位置づけているのは注目すべきことといえます。
室町時代のごく一時期だけ制作されたとみられる白天目茶碗は、その名の通り、白色の天目茶碗で、信長の茶会にも用いられた記録があります。また室町末期の茶人、武野紹鴎(たけの・じょうおう)が所持していたとされるふたつの茶碗は古来より大名物として珍重され、現在はいずれも国の重要文化財に認定、うちひとつは徳川美術館に所蔵されています。
ところで、志野釉が白いのは、成分に多く含まれる長石が窯の熱によって白濁することにあります。荒川は白天目にも長石を含んだ釉薬が使われているとみて、志野焼の系譜に連ねたわけです。
白天目の回天
ところが、荒川が亡くなって10年ほど経った1995年、岐阜県多治見市小名田にある古窯跡から、白天目に似た遺物が発掘されたことで、従来の見方に対する疑念を抱く人物が現れます。
古窯跡のすぐ近くに住む陶芸家の青山双渓氏は、小名田周辺には長石が採れる場所がないことから、白天目には志野釉ではなく、長石が含まれない灰釉が使われているのではないか、とみたのです。
この仮説を証明するために、青山氏は灰釉と地元の土を組み合わせての試し焼を幾度となく繰り返すことになります。そして長い年月の末、ついに古来の白天目のような白色の肌を再現することに成功したのでした。それは室町時代から数えれば、約500年ぶりの再現ということになります。
昨年、青山氏の作品が徳川美術館に寄贈され、いわば白天目茶碗の新旧そろい踏みとなりました。このことは、白色をめぐる日本の美意識が古来よりさまざまな作り手が関わって現代までつながってきたことをあらためて深く印象付ける出来事であったといえるでしょう。
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