この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のバイヤー・米山が、夏にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
梅雨が明けたと思えばもう8月。京都の夏は暑さが違うと口々に言われます。そんな京都の風物詩、8月16日に行われる「五山の送り火」についてお話します。
毎年8月16日午後8時、街の明かりが一斉に消え、東山の「大文字」、松ヶ崎の「妙・法」、西賀茂の「舟形」、金閣寺の「左大文字」、嵯峨の「鳥居形」と火が灯され、約30分、人々はお盆に迎えた亡き先祖を思い、その精霊を再び冥府(めいふ)へと導き弔います。その送り火が終わると、寝苦しい熱帯夜も減り、秋の訪れを感じるようになります。
祇園祭とともに京都の夏を代表する風物詩であるにも関わらず、「いつ、誰が、何のために」始めたのかは未だに謎だといわれています。
火を焚いて先祖の霊を鎮める行事「万灯」。家庭で行われていた事が地域へ広がり、大規模化したのが始まりでないか?
応仁の乱が終わった1477年以降、地震、洪水、火災が続発。都の人々にとって度重なる乱戦で生まれた怨霊のたたり以外には考えられず高まった危機感が「万灯」を巨大化させたのではないかとの説もあります。
そもそも民衆による自発的な行為であったため公式記録として残されてないのではないかと言われています。
夏の夜を彩る五山の送り火にも様々なよもやま話があります。
その1 1943年から3年間、京の夏の夜空から送り火が消えた。太平洋戦争末期、火を守っていた若者は戦地に赴き人手も足らず、空襲に備え「灯火管制」が厳しくなったため。代わってその年、朝の大文字に現われたのは「白い大文字」地元市民800人が白いシャツに身を包み早朝の山に登り、戦意高揚と鎮魂の願いを込めて人文字で「大」を描きラジオ体操を奉納したという。
その2 五山の送り火のはずが、いつまでたっても四山しかつかない…。1963年当日の夕方、「大文字」は激しい集中豪雨に見舞われた。保存会は天候に関わらず点火する準備を進めていたが、身動きできないほどの雨に点火ができず翌日への延期を決断し、その日は異例の「主役なしの四山の送り火」に終わった。
その3 記憶に新しい2000年12月31日。京都市は21世紀幕開け記念事業として「20世紀の送り火」を行った。浴衣にうちわがピッタリの夏の行事が、ダウンジャケットに白い息で見送るというなんとも異例な送り火。8月以外に五山が揃うのはこれが二度目であった。
その4 阪神タイガースの18年ぶりのリーグ優勝に沸いた2003年。その熱気は道頓堀ではおさまらず、大文字山にまで「飛び火」した。優勝目前の9月のとある日、山に浮かびあがったのは「大」の字でなく「HT」マークだった。「阪神の快進撃にあやかろう」とフリーターや学生25人が懐中電灯を片手に山を登り光の文字を描いたのだという。保存会や地元の人々には笑えない珍事であった。
地域の保存会も世襲だけでは参加者を確保することができず、ボーイスカウトやボランティアの協力が欠かせない今日。たくさんの旅行社が送り火鑑賞を含んだツアーを組んでいます。
間近で見るほど圧巻です。是非一度、見にいらしてください。
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