猫と軍艦 その二

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、梅雨にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

陶工・三浦乾也は、井伊直弼から依頼された破笠風の書棚を見事作り上げたこともあって、諸侯のあいだにもその名を一躍知られるようになります。諸侯たちはこぞってさまざまな品の制作を乾也に注文したほか、なかには彼から焼き物の指導を受ける者も現れました。

2021年6月1日コラム

当時江戸では、各藩のお殿様たちのあいだで、自らの敷地のなかで作陶する御庭焼がブームになっていました。19世紀にはいって、いわゆる文化文政時代を中心に江戸で町人文化が花開きますが、武家自身も文化の重要な担い手であったわけです。乾也の師である吉六も、こうした大名の窯に陶土を届ける仕事を通じて、本格的に焼き物の世界に入っていくことになったのでした。

そうした師匠をもち、またもともと幕臣の出でもある乾也が諸侯と深く交流をもつことになるのも納得といえます。とはいえ、乾也を招いてその技術を学んだ者のなかには、阿部正弘もいたというから驚きです。この出会いが乾也の生涯における画期となりました。

阿部正弘といえば、若干25歳で老中となり、風雲急を告げる幕末日本の舵取りにあたり、ついには200年以上続いた鎖国政策の転換に踏み切ったことで知られます。彼の大きな特長として、有能な人材を幅広く登用し、また身分の差を越えて人々の声にも耳を傾けるところがありました。あの嘉永6年(1853)の黒船来航では、日本中が大騒ぎになるなか、対応策について庶民も含めた幅広い層から意見を募るなど、柔軟な姿勢で臨んでいます。

実はこのとき、若き老中に意見を具申した者のなかに、乾也もいました。乾也は黒船来航を知るとすぐに浦賀まで赴き、さらには小舟を仕立てて間近に迫って、その様子をつぶさに観察しました。そして黒船のひな型を自ら作り、蒸気船建造の必要性を訴える意見書とともに、阿部に提出したのでした。

阿部は乾也の熱意に動かされ、翌嘉永7年、彼に対して長崎にて西洋式軍艦について研究するよう命じました。これは同じく阿部によって登用された勝海舟らが長崎の海軍伝習所で学ぶよりも1年も前のことです。黒船出現を受けて国防意識に目覚めた乾也が進取の気性と得意のモノづくりの能力を活かしてすぐさま行動に移っていることにも驚かされますが、彼を2歳しか年の違わない阿部と直接結びつけたものが、ほかでもなく焼き物であったという奇縁には、なおさら驚かされます。

長崎に赴いた乾也は、オランダ人から造船技術のほか、ガラスの製造、溶鉱炉や反射炉、さらには大砲についても学んだといわれますが、その期間は3か月にも満たないものでした。これほどの短期間で西洋の軍艦を造るだけの技術を身に着けられるとは普通では到底考えられません。しかし、普通ではないのが三浦乾也であったといえます。彼は江戸にもどるとすぐに幕府に対して、軍艦の建造を自分に任せて欲しいと求めるのです。

しかし結局、幕府はその要望を容れませんでした。すでにオランダに蒸気船を発注することになっていたからかもしれません。乾也は落胆します。が、その後、思わぬところから声がかかりました。東北の大藩、仙台藩が乾也に軍艦建造の指揮を依頼するのです。それを引き受けた乾也は家族とともに仙台に移り住み、その後1年半かけて見事に軍艦「開成丸」を造り上げました。

おそらく乾也自身は蒸気船を造りたかったと思われますが、幕府が建造した鳳凰丸や薩摩藩の昇平丸などと並んで、開成丸は日本最初期の西洋式帆船軍艦として堂々誕生しました。

しかもそれが、蘭学者でもなく、ましてや船大工でもない、焼き物や漆芸で名を知られた一人の職人が指揮をとって建造したものであったということは、世界広しといえども他に類を見ないものだといえるでしょう。

猫と軍艦 その三 へ続く

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。