この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、歴史・ハロウィンにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
大量の在庫を失い、また多くの売掛金の回収も不能となるなど、甚大な損害を被りながらも、十一屋の人びとは再起をあきらめませんでした。
2023年10月1日コラム
丸の内の十一屋
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼け出された十一屋商店。
ただ、そのためには、まずなによりも拠点となる場所を早々に見つけることが必要でした。
そうしたなか、取引先の好意もあって、運よく都内に仮営業所を構えることが決まります。場所は、焼け残った丸の内でした。三菱21号館内の数部屋が会社復興のための当面の拠点となったのです。
ところで、少しわき道にそれますが、大正初めに建設された三菱21号館は、日本の建築の歴史においてとても重要な存在でした。いまはその姿を見ることのできないこのビルの何が画期的だったかというと、その建築様式です。
明治期のオフィスビルは、イギリスを範とした棟割り形式の建物でした。三菱1号館以来、丸の内のオフィス街もイギリス型の建築様式で建てられていました。
しかし、三菱21号館はそれまでのやり方を踏襲せず、共通の玄関やエレベーターを用いるアメリカ型を採用しました。これはまさに、現代の貸しビルの元祖といえるものだったのです。
しかも、それまで主流だった赤煉瓦造ではなく、最新の鉄筋造でもあったので、三菱21号館は関東大震災にも耐え抜く頑強さをもっていました。
同じく三菱が関東大震災の年に着工したオフィスビルである丸の内ビルヂング、つまり丸ビルもアメリカ型の鉄骨造でした。これら三菱21号館や丸ビルなど震災に耐えた丸の内の大型建築は、帝都復興において大きな役割を果たしたのです。
さて、日本初の現代的オフィスビルの三菱21号館内でしばらく仮営業を続けていた十一屋でしたが、その後銀座の尾張町に路面店を構えることになります。震災後、銀座通りに面して二階建てを建てたのは、資生堂に次いで二番目の早さだったといいます。
ところが、震災で受けたダメージが相当に深刻なものであったのと、また世界大戦後の不況も重なって、十一屋の経営はかつてのような勢いを取り戻すまでにはいたりませんでした。
その後数年はなんとか事業を続けたものの、昭和のはじめ、十一屋はその50年の歴史に幕を下ろすことになります。ここに高級洋食器専門店として全国に名を轟かせ、国産洋食器の開発においても業界をリードしてきた、知る人ぞ知るパイオニアの灯火がいったん消えることになったのです。
しかし、これで十一屋の物語が途絶えることはありませんでした。
直接のきっかけとなったのは、それまで長年にわたって十一屋と取引してきたある業者の存在です。
この業者は、このまま老舗の暖簾が失われてしまうのは何とも惜しいとして、木村家を直接訪れて会社を再興するよう熱心に説得しました。そのとき、いまの自分の事業があるのも十一屋のおかげであるとし、会社の復興のために協力は惜しまないとまで申し入れます。
その熱意にほだされるかたちで、二代目木村新太郎の息子たちが事業の再建を決断します。もちろん、かつてのような大店というわけにはいきませんが、銀座二丁目の表通りに小さな店舗を構えて再出発を図ったのでした。
ちょうど当時は、満洲国が建国されたタイミングでした。これが新生十一屋にとって大きな追い風となります。新国家の樹立に合わせて調度類を一から揃える必要があり、そのうち洋食器については、やはり日本随一の老舗である十一屋にオファーがなされたのでした。
このとき、十一屋を強く推したのが、「天皇の料理番」秋山徳蔵だったそうです。
またその後、東芝と共同で国産初の耐熱グラスの製造に取り組むなど、十一屋は大きなプロジェクトに関わることで、再び業界の雄として存在感を示したのでした。
しかし、再び十一屋は、どうにも抗えない時代の荒波に飲み込まれていきます。
1940年代に入って統制経済が強まっていったことで、洋食器の製造販売自体がきわめて困難な事態に陥ってしまったのです。
さらに、店舗が戦災に巻き込まれたほか、社長も応召されるなど、これ以上経営を続けていくことが現実的にできなくなってしまいました。一度は再生した十一屋でしたが、こうしてその長い伝統に本当の終止符が打たれることになりました。
捧吉右衛門と十一屋
十一屋の波乱万丈の歩みをたどってみると、いかに日本の洋食器を語るうえで、なくてはならない存在であったのかを、改めて強く感じさせられます。
しかし、その歴史については現在ほとんど知られることはないようにも思います。とはいえ、1970年代半ばに刊行された書籍がありまして、これが十一屋に関する貴重な情報の宝庫となっています。
たまたま古書店で見つけて、このコラムでも縦横に参照しました。KS懇話会編『洋食器物語』という本です。
KS懇話会の「KS」とは十一屋主人である木村新太郎のアルファベットの頭文字をとったもので、会社のトレードマークにも使われました。つまり本書は、十一屋の元社員や取引業者など往年の十一屋を知る人びとが集まって組織した会が中心となり、メンバーたちに聞き取ったり、また寄稿してもらったものを編纂した証言集なのです。
十一屋に関わった個性的な人びとの逸話が盛りだくさん掲載されていて、どれも興味深いのですが、とりわけ取引業者のなかで目を引くのが、捧吉右衛門という人物です。
さきほど、一度店を畳んだ十一屋の創業一族木村家に対して、再興を直談判したある業者というのは、実は捧吉右衛門のことです。
新潟県燕市で代々続く金物商の出である捧吉右衛門と十一屋とは、明治以来の密接な関係があり、現在燕が国内有数の金属加工製品の産地となったのも、そうした両者の交流が発端となっているのです。
このあたりのことについては、また次回に取り上げてみたいと思います。
その漆へ続く
藤森照信「丸の内をつくった建築家たち むかし・いま」
https://www.mjd.co.jp/130th/mukashiima05.html
KS懇話会編『洋食器物語』(叢文社、1975年)
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