この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、ひな祭りにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
慶応義塾大学創設者の福沢諭吉が、大阪船場の私塾「適塾」の塾頭だったころといいますから、安政四年(1857)ごろのことでしょうか。
2023年3月1日コラム
肉食のすすめ
そのころには、すでに大阪にも「牛鍋屋」が数軒あって、彼自身も常連だったそうです。黒船来航から数年にして、外来の文化が日本国内に徐々に浸透していたことを示すエピソードといえますが、とはいえ本格的に肉食が普及し始めるのは、やはり明治にはいってからのことです。
明治二年(1869)に政府は食肉や乳製品を製造販売する「牛馬会社」を設立し、国策として国民の肉食を推し進めます。翌年にはこの会社の要請で福沢が『肉食之説』と題するパンフレットを執筆。西洋にならって肉と乳製品を食べて健康の増進を図らなければ、「一国の損亡なり」と発破をかけたのでした。
ちなみに、牛馬会社は東京の築地にありました。築地といえば、明治元年に外国人居留地が設置されていますので、インバウンドの需要もみこんでの会社設立だったといえます。
このように欧米からの訪日客に対して食肉や乳製品を供給するとなれば、当然のことながら、彼らの口に合うような本場の西洋料理にてもてなす必要があったわけです。
それゆえ、各地の外国人居留地が日本における西洋料理の発信地となりました。
もちろん、外国からの旅行客にとっては、食事も大事ですが、宿泊できる場所も欠かせません。ここに両方を兼ね備えた存在としてのホテルの整備が文明開化の時代の必須の事業となったのです。
そうした本格的な西洋式のホテルが全国に先駆けて生まれたのも、築地居留地でした。「築地ホテル館」、英語名“Yedo Hotel”がそれです。
実は、このホテルの建設は、江戸幕府が決定したものでした。外国人の訪問客の増加をみこんで築地の軍艦操練所の跡地に建て始めたものの、すぐに幕府が崩壊、江戸が東京へと変わるという大きな混乱のなか、明治元年に開業しました。
まさに新しい日本を象徴するような存在であった築地ホテル館は、清水組(現在の清水建設)の二代清水喜助が横浜で学んだ洋風建築の技術と和風の装飾を融合して作り上げたものです。延べ床面積1600坪の堂々たるもので、東京の新名所として多くの見物客が訪れたといいます。
フランス料理の父
この築地ホテル館のなかに、日本で最初の本格的なフランス料理店もありました。
料理長はフランス人のルイ・ペギュー。彼は宮中晩餐会の料理も手掛けるなど、日本における「フランス料理の父」として、わが国の洋食文化の形成に多大な影響をもたらします。
ただ、このレストラン自体は数年しか存続しませんでした。ホテル自体が経営不振に陥り、さらに明治五年の銀座大火で全焼してしまったからです。
ですが、ペギューはその後も日本に残り、横浜の「グランドホテル」で料理長を続け、さらに神戸に移ってからは、のちの「神戸オリエンタルホテル」を自ら経営するなど、日本各地でホテル・レストランの礎を築くことになるのです。
その当時、ヨーロッパから神戸を訪れた、ある文化人がペギューのもてなしを絶賛していることからも、彼の料理や接客の質の高さが本場に引けを取らないものであったことが伺えます。
初代・天皇の料理番
ところでペギューに関して注目すべきは、彼の薫陶を受けた日本人のなかから、その後の日本の洋食を担う人材が巣立っていったことです。
たとえば、その弟子のひとりに吉川兼吉(よしかわ・かねきち)がいます。吉川は、横浜のグランドホテル時代にペギューの指導を受けてフランス料理の研鑽を積んだ後、鹿鳴館の料理長を経て、明治23年(1890)に開業した帝国ホテルの初代料理長に就任します。
帝国ホテルは、国賓をもてなすための宿泊施設として、外務卿などを歴任した井上馨がその必要を説き、実業家の渋沢栄一と大倉喜八郎らが鹿鳴館の隣に建設しました。名実ともに日本のホテル文化をリードする存在として今に至ることは、ご存じのとおりです。
吉川は37歳から16年の間、料理長を務めたあと、宮内省大膳寮にはいり、明治天皇の料理番となります。
その後も、伊藤博文の要請を受けて李王朝の料理番を務めるなど、彼はまさに名人としての揺るぎのない評価を確立し、栄達の限りを尽くした人物といえるでしょう。
蘇る幻のレシピ
こうなると、立志伝中の人物の料理がどのようなものだったのか、知りたくなってくるところです。
とはいえ、なにせ明治の御代のお話ですので、資料も少なく、その内実はながらくベールに閉ざされていたのですが、なんと21世紀になって事態が大きく動きました。
平成21年(2009)に、吉川が直筆で書き残した文書が発見されたのです。これは、彼が同じく帝国ホテルで料理人をしていた息子の林造と一緒にまとめたもので、オードブルからデザートまで286種類におよぶレシピの詳細が記されていました。
帝国ホテルは、開業125周年の記念にあたり、この資料をもとにして当時の料理を再現する試みをすることができました。そのメニューの一部をみると、たとえばカニクリームコロッケや和牛タンシチューなどがあって、現代のわれわれの親しんでいる洋食との近しさも感じられて興味深いところといえます。
このようにペギュー以来の西洋料理の伝統が帝国ホテルにいまも脈々と息づいているわけですが、もちろん日本の洋食の軌跡はこれだけに留まるものではありません。人と食が織りなす多彩な流れがいくつも重なり合いながら、現在へと至っているのです。
その参へつづく
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