この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、オブジェ・ひな祭りにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
今年は、20世紀を代表する彫刻家イサム・ノグチの生誕120年ということもあってか、個人的に改めて彼の仕事ぶりが気になっています。
2024年3月1日コラム
幻の慰霊碑
実をいうと、人生最初に遭遇し、手で触れてもみて、強く印象に残っている彫刻作品は、ノグチのものでした。広島市内の平和公園程近くに架かる平和大橋の欄干がそれです。
「つくる」と題されたこの作品は、子供心にも他の橋の欄干とは、ずいぶん違って見えて、通るたびにそのニョキッと突き出た、のっぺりした顔のような真ん丸の表面を触りたくなったものです。
竣工は1952年。のぼる太陽をイメージしたもので、原爆から復興する広島の姿を表しているとされます。もともとは、「いきる」と名付けられていたのですが、ちょうど黒澤明の映画「生きる」が公開されたために変更となったといわれます。
ちなみに、平和公園を挟んで反対側の川に架かる西平和大橋の欄干もノグチの作品で、犀の角を立てたようなこちらも特徴的な姿をしています。広島が悲劇の経験から別れ旅立つさまを、船の竜骨をモチーフにして表し、「ゆく」と命名されています。
ノグチは、平和公園全体の設計責任者であった建築家・丹下健三と交友があったことから、プロジェクトへの参加を自ら願い出て、強い意欲をもって制作に当たりました。実は、この二つの橋とともに、彼は丹下から原爆慰霊碑の制作についても依頼され、取り組んでいます。
ノグチは、丹下の研究室に連日通って雛型づくりに励み、日本の埴輪にインスピレーションを受けたシンプルで荘厳なデザインを完成させます。ところが、その案は結局不採用となり、ノグチは強いショックを受けます。どうやら、建築の最終決定権をもっていた組織内で、原爆を投下した側の国民にデザインをさせることに反発がでたためだったようです。
日本人の父とアメリカ人の母とのあいだに生まれ、戦時中は志願して日系人強制収容所に入った経験をもつノグチとしては、原爆の惨劇に対する深い想いを抱え続け、幻となった原爆慰霊碑の実現に終生こだわったといいます。
魯山人とノグチ
さて、ノグチが平和公園のプロジェクトに関わっていた当時、日本における彼の拠点は鎌倉にありました。あの北大路魯山人の邸宅の一隅を借りて住んでいました。
彼は1950年に19年ぶりに来日し、翌年再び日本に戻ってきたのですが、そのとき傍らには女優・山口淑子を伴っていました。
日本で映画撮影の仕事がある妻との新婚生活を送る場所を探していたノグチは、知り合ったばかりの魯山人の好意で、離れの古民家を使わせてもらえることになったのです。
魯山人は1927年に北鎌倉に登り窯「星岡窯」を築いて以来、約7千坪といわれる自然豊かな広大な敷地のなかに十棟以上の古民家を移築し、自分の理想郷を作り上げていました。ノグチ夫妻に提供した「田舎家」は、母屋から見える風景とするためのものだったそうです。
気難しい毒舌家としてつとに知られる魯山人ですが、ノグチとは意気投合し、住む家どころか自分の窯や材料類も自由に使わせました。ノグチのほうも、二回り近く年上の魯山人を深く敬愛し、二人の関係は「まるで親子みたい」だったと山口は回想しています。
こうしてノグチは、鎌倉に住んだ約1年のあいだ、毎日窯に通い、魯山人や職人たちに交じって作陶しました。彼はこれまでも日本に来た折には、たとえば京焼の宇野仁松の窯や、瀬戸にも通ってテラコッタの制作をした経験がありました。しかし、これほど長期間にわたって朝から晩まで焼き物づくりに没頭したことはなく、しかも魯山人のもとでその美意識と技を観察できたわけですから、彼にとって鎌倉の生活はなにものにも代えがたいものであったといえます。
ノグチと日本の前衛陶芸の幕開け
ところで、ノグチと魯山人は二人して、鎌倉から岡山の伊部に旅をしたことがありました。
備前焼の陶工として初めて人間国宝となった金重陶陽の窯で作陶するためです。そのときノグチの作品づくりに接した金重は、その没頭ぶりと見事な手際に感銘を受けたといいます。
ただ、前衛芸術家のノグチの作る焼き物は、これまでの伝統の枠を軽々と超えていくものでした。とりわけ焼く前のオブジェ作品は、金重には奇妙な造形物にしか見えなかったものの、いざ窯出ししてみると、「今までになかった新しい意図が備前の土に感じられた。これは備前の新しい息吹であろう」とその芸術性の高さに驚いたといいます。
こうして稀代の芸術家たちと交流しながら制作された作品の数々は、神奈川県立近代美術館で1952年9月に開催された個展で発表されました。
109点の作品のうち、半数以上は素焼きのオブジェでした。それまで日本において焼き物といえば、なにかを盛ったり入れたりする器としての役割が中心とされてきたわけですが、ノグチはその観念を取り払い、彫刻家として造形そのものの面白さを追求する作品を一堂に並べたのです。
それら前衛的な焼き物の数々は観る者を驚かせ、とくに若い陶芸家たちを強く刺激することになります。たとえば、京都の五条坂あたりで京焼をつくっていた八木一夫ら若手陶工たちが1948年に結成した「走泥社」の面々がそうです。
新たな陶芸のあり方を模索していた彼らは、当初ピカソの陶芸作品などに影響を受けた作品をつくっていたのですが、ノグチの個展以降、もはや器としての用をなさない前衛的なオブジェづくりに邁進していきました。それから数年して八木が発表した作品「ザムザ氏の散歩」は、日本における前衛陶芸の幕開けを告げる重要作として評価されることになります。
こうしてノグチは日本という自らのルーツと深く格闘することを通じて、それまでにない新たな美の境地を開拓し、日本の美術界を大きく根底から揺さぶりました。
もちろん彼は、自らが日本で得たものを原爆慰霊碑のデザインにも惜しみなく注ぎ込んだといえますが、その精神性と革新性を受け入れるまでには、まだまだ時代が追いついていなかったといえるのかもしれません。
広島市「平和大橋・西平和大橋の欄干について」
https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/151/6605.html
ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』上下(講談社、2017年)
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