この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、フォーク・カトラリー・スプーンにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
明治末期に、日本の石油王から十一屋商店へと舞い込んだ高級洋食器の製作依頼。この難しい注文をこなすことのできる業者として白羽の矢が立ったのが、新潟・燕の金物商、捧吉右衛門商店でした。
2023年12月1日コラム
前回のコラムで触れましたように、これがいまや世界的な洋食器産地として知られる燕と洋食器とのファースト・コンタクトだったのです。しかし、それはあくまでも単発的な注文に過ぎませんでしたので、その後すぐにこの地が洋食器の一大産地に成長したというわけではありませんでした。
十一屋との仕事から数年経ち大正時代にはいってからも、燕を取り巻くモノづくりの状況は依然として厳しいままでした。
世の中は大量生産・大量消費の時代へと確実に移り変わりつつありましたが、燕の金属工業はあいかわらず手作りが主流でした。それゆえ、世界大戦勃発による銅価格の高騰やアルミ製品の普及が進むなかでも、単価の安い商品を大量に供給するというやり方はなかなか実施できなかったのです。
国産カトラリーとの出会い
しかしそうはいっても、どうにかして打開策を講じなければ、燕のモノづくりは息絶えてしまいます。
暗中模索していた八代目吉右衛門は、あるとき東京に出かけました。神田にあった取引先を訪ねたのですが、思いがけず真鍮製やニッケルメッキのフォークを見せられます。それは当時きわめて珍しかった日本製のものでした。
吉右衛門自身の回想によると、日本で初めて洋食器を販売したことで知られる「松木屋」の店員であった三沢という人物が手加工で作ったものだったそうです。
当時は洋食器自体がまだまだ珍しく、またもちろん日本にあるもののほとんどは輸入されたものばかりでした。そうしたなかでも、大阪では吉江丑松なる人物が銅と亜鉛とニッケルの合金である「洋白」を使ったフォークを作ったり、また東京でも吉村安治という作り手がスプーンを自作するなど、国産のカトラリーが細々とですが手加工で作られはじめていたようです。
こうした国産カトラリーの出現は、日本国内で西洋料理の店が増えてきて一般の人びとにも洋食が流行しはじめたことの証拠でもありました。吉右衛門が出会ったフォークもそうした国産品の幕開けを告げる作品のひとつだったのです。
十一屋からの依頼で洋食器製作に取り組んだ彼としては、こうした社会の動きとともに、実際に国産のフォークを目にしたことで、大きな刺激を受けます。これからは一般向けの洋食器が求められる時代になるのではないかと感じ取ったわけです。
燕産フォークの誕生
吉右衛門は取引先に頼んで、「姫フォーク」(ケーキフォークよりも小さなフォークで日本発祥と言われる)を見本として譲り受けて持ち帰り、燕の職人の協力のもと、自ら試作してみました。
真鍮のキセルやランプを溶かして地金をつくることからはじめ、それを一枚一枚鎚でたたいて伸ばし、小型のハンドプレス(通称「猫プレス」)に二本並べて据えた丸鋸でもって歯を切り出したのでした。
こうして、燕で第一号のフォークが誕生しました。
吉右衛門はこのサンプルをもって大阪で営業に回り、注文を取り付けることに成功します。そして燕にあった31軒の町工場のうち、20軒が製造を引き受けてくれることになりました。
当時の燕の職人たちのあいだでは、まだ洋食自体に馴染みがなかったこともあり、フォークを小型の熊手だと勘違いし、こんなものがどうして売れるのかと訝しんだそうです。
はじめのころは猫プレスでフォークの歯を切っていたのですが、厚手のフォークになるとうまく加工できないため、さまざまな試行錯誤がなされました。最終的には金型を使った工法を案出するなどして、燕のカトラリー生産はその技術力を着実に高めていくことになります。
ナイフづくりの試練
その後、東京からもまとまった注文が入るようになり、フォークのほかティースプーンの生産にも着手しました。そうしたなか、吉右衛門はさらにレパートリーを増やすべく、ナイフの製造にも取り組みます。
ところが、フォークやスプーンの類は、これまでの燕の技術を応用して製造することができたのですが、ナイフは勝手が違っていました。どうしても満足のいく出来のものができず、さらには製造中の事故で何人もの殉職者を出すなど、大きな壁にぶつかったのです。
しかし、吉右衛門は諦めませんでした。やはりフォークとスプーンにナイフが揃ってはじめて洋食を味わうことができるのであって、どれも欠けてはならないという信念があったのです。
そこで彼は、古くから刃物の産地として有名な岐阜県関から職人を十名ほど招聘して技術移転を図ります。これによりナイフ製造が軌道に乗ることになり、カトラリーの産地としての燕の骨格が築かれることになったのでした。
ちなみに、このときの関からの技術移転においては、当時最新の素材であったステンレスを使った刃物作りのノウハウも導入されました。
第二次世界大戦以前の洋食器は真鍮製のものが主流でしたが、戦後になると錆びることなく手入れのしやすいステンレス製が急速に広がることになります。燕の人びとは持ち前の進取の精神を十二分に発揮したことによって、ステンレス化の波にもスムーズに対応することができたといえます。
グローバルビジネスの開拓者として
こうして燕は国産カトラリーの一大産地としての揺るぎない自歩を固めていきました。
もちろん、これ以降も時代の荒波のなかで苦難の時を経験することもありましたが、その都度再起して発展するという歴史を紡いできました。
そうした生命力の強さは、新しい技術を貪欲に取り入れ、環境の変化に適応していこうとする姿勢が常にあったことはもちろん、世界全体を視野に入れたモノづくりをしてきたことによって育まれたものだったといえます。
たとえば、まだフォークやスプーンをようやく生産できるようになった最初期のことです。大阪の貿易商を介してロシアから一日200ダースのスプーンを作ってほしいとの注文が燕に入ったことがありました。
これはどうやら、1917年の二月革命で内閣を立ち上げることになるケレンスキー派からの注文だったようです。第一次世界大戦でヨーロッパが主戦場になったことで、さまざまな商品の製造以来が日本に集まり、洋食器もそのひとつであったことが伺われる逸話です。
吉右衛門は突然の大量注文に驚きつつも、それに応えて製造を開始したのですが、その直後にレーニンらによる社会主義革命が勃発、結局注文自体がご破算になってしまいました。
しかし、燕はこの事態に意気消沈することはありませんでした。
ロシアがダメならば、海外の他の地域に輸出するまでと、すぐに方針転換して新たな販路の開拓に乗り出したのです。
現在の燕が高品質の製品を日本のみならず海外にも発信し、まさに世界的な産地としての評価を獲得することができているのには、こうした先人たちの生き様が脈々と受け継がれているからだといえます。
国産洋食器の150年
さて、ここまで日本の洋食器の歴史を全8回にわたって取り上げてまいりましたが、いかがでしたでしょうか。
思えば、明治天皇のいわゆる「肉食宣言」から現在まで約150年に年月が経ちました。
その間、皇室や日本政府の後押しによって国産洋食器の基礎が築かれつつ、一方で民間主体の洋食器づくりも一歩一歩進んできたわけですが、その一端を少しばかりですが跡付けることができたように思います。
今回のシリーズでは陶磁器や金属製の洋食器を主に見てまいりましたが、もちろんたとえばガラス製品の存在も忘れてはなりません。
このあたりの「事始め」については、是非また別の機会に取り上げてみたいと思います。
捧吉右衛門『日本洋食器史 燕が歩いた六十年』(叢文社、1972年)
同『日本洋食器史年表』(叢文社、1972年)
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