この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、ノリタケ・ランプ・フォークにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
前回のコラムでは、もともとランプ屋だった十一屋商店が、時代の趨勢をいち早く見越して洋食器屋へと鞍替えし、さらには民間における国産洋食器生産の先駆けとなった道程を辿ってみました。
2023年9月1日コラム
十一屋とノリタケ
実は十一屋は、洋食器を自前で生産するのみならず、国内のメーカーが手掛けた商品を買い付けて販売をすることでも国産洋食器の普及に貢献しています。
それまで輸出用の製品を作ってきた国内の各メーカーにとって、今後需要の拡大が見込める国内市場は大きな魅力がありました。しかし販路が確立されていないため、洋食器の販売で名声を轟かせていた十一屋を頼ったのです。
十一屋は、各財閥から帝国ホテルや精養軒などの有名ホテルやレストラン、そして地方にまでも売り先をもっていましたが、やはり皇室御用達となったことで、国内筆頭の高級洋食器店として広く認知されました。国内メーカーにとっては、まずなによりも取引願いたい存在だったわけです。
そうしたメーカーのひとつに、「日陶」すなわち日本陶器合名会社がありました。
明治37年(1904)に設立された日陶は、いち早く白色硬質磁器の洋食器を開発・輸出して海外で高い評価を得ました。創業地にちなんで、のちに「ノリタケ」のブランド名で広く知られることになります。
その日陶の初代社長である大倉和親は、国内向けにも事業を拡大したいと考え、自ら十一屋に売り込みをかけます。はじめて二代目木村新太郎に面会したとき、「陶器屋」ですと名乗ったところ、「投機屋」と勘違いされて危うく追い返されそうになったというエピソードがあるそうです。
十一屋の転機
ところで、国産の洋食器の発展に一方ならず貢献した二代目木村新太郎ですが、実は彼は初代の実子ではありません。もともとは横浜で豆売りをしていました。
横浜にランプを買い付けにきた初代が、朝早くからきびきび働く豆売りの青年をみつけ、その仕事ぶりにほれ込み、自分の店に引き抜いたのです。のちに、この青年は初代の妹と結婚し、二代目を継承することになったのでした。
初代に見込まれたとおり、二代目は熱心に商いに取り組みました。ただし、洋食器屋への全面的な転換については、ランプにこだわる初代と意見の食い違いもあったようです。しばらくは十一屋のなかにランプ部と洋食器部をそれぞれ設けて、前者を初代、後者を二代目が取り仕切り、互いに売り上げを競っていたといいます。
さてその後、大正時代にはいり、十一屋にとって大きな転機となる出来事がありました。
あるとき宮内省から、天皇陛下の食事用に「魔法鍋」を作ってほしいという、いままでにない注文を受けます。これは宮中の厨房から長い渡り廊下を通って陛下のもとに食事を届けるまでに料理が冷めてしまうことをなんとか解消したいという、料理担当たっての願いだったのです。
当時は、魔法瓶の国産第一号が産まれたばかりのころでしたので、宮内省からの注文はなかなかの難題だったといえます。しかし二代目木村新太郎は、全身全霊で日夜打ち込みました。そして試行錯誤のすえに、納得のできる品をつくり、宮中に無事納めることができたのでした。当時の天皇の料理番からは、その仕事を高く評価されたといいます。
ところが、この名誉ある大仕事を終えた直後、二代目に悲劇が襲います。気分転換のために観劇にいったところ、そこで脳溢血で倒れてしまったのです。一命はとりとめたものの、いままでのように業務に当たることはできなくなってしまいました。
消費文化の追い風に乗る
時代の変わり目を素早く読み取ってイノベーションに取り組み、事業を大きく発展させてきた二代目が、まだ40代の働き盛りにもかかわらず、会社の舵取りをとれなくなってしまったことで、十一屋は岐路に立たされます。
しかし、これまで二代目とともに働いてきた支配人や重役たちが会社の運営を担い、その後も十一屋はさらなる発展をしていきました。当時は消費文化が花開いた時代で、その追い風に乗ることが出来たのです。
大正3年(1914)に完成し、「スエズ以東他に比なし」と評された日本橋三越新館—地下一階地上5階の鉄筋コンクリート造りで白煉瓦に覆われたルネサンス様式—をはじめとする百貨店が全国に広がり、まさに大衆消費社会の到来を象徴するものとなりました。
十一屋はこうした百貨店にも取引先を得て、当時はまだ珍しかった自動車で納品してまわったといいます。さらに、ランプ屋からの転業者などを特約店とすることで、全国的な販売網を一層拡充していったのでした。
その一方で、引き続き国産洋食器の分野にも力を入れました。自社工場での金属洋食器製造では新考案のものも数多く作られました。たとえば、フォークの片側だけを薄くしたケーキフォークは十一屋の特許商品でした。また、国内のメーカーにもさまざまなものを発注しました。そうしたなかには、宮中に納品した矢筈模様のグラスなどもあります。
さらには、冷蔵庫の開発・製造も自ら手がけました。もちろん、現在のような電気式のものではなく、氷を入れて冷やすいわゆる「冷蔵箱」と呼ばれるものです。十一屋は氷室の改良をおこなって氷の節約が可能な商品をつくり、宮中にも納めました。この冷蔵庫は食材の味が変わりにくいということで、1970年代になっても宮中で使われていたといいます。
このように十一屋は、困難に直面しながらも、新たな分野に臆せず挑戦する姿勢を失わず、常に業界をリードする存在であり続けました。
しかし再び大きな試練に見舞われることになります。大正11年(1923)、関東大震災によって、あの堂々たる洋館づくりの社屋は、あとかたもなく灰燼に帰したのです。
その陸へつづく
参考文献:KS懇話会編『洋食器物語』(叢文社、1975年)
国立国会図書館「本の万華鏡 第27回」https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/1.html
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