この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、バカラ・ランプ・夏にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
さて、これまで見てきましたように、日本における洋食や洋食器の導入は、明治の「文明開化」と歩調を合わせたものであり、そのときに皇室が果たした役割はたいへん大きいものがあったといえます。
2023年8月1日コラム
文明開化の灯り
これも先に触れましたが、洋食器の国産化にしても、明治天皇の号令によって各省庁で用いられる物品の国産化が着手されたことが重要な引き金になった面がありました。
ではその一方で、民間の側から洋食器の国産化を進めようとする動きはなかったのでしょうか。
この点について追ってみると、どうやら「ランプ」の存在がカギになるようです。
そうです、照明器具として使われる、あのランプです。
西洋式のランプは幕末に舶来しました。その最初は、1859年(安政6年)に越後長岡の唐物商、鈴木鉄蔵が横浜で手に入れたものであるとか、1860年(万延元年)に蘭方医の林洞海が知人のアメリカ土産として贈られたものだ、などと諸説あるようです。
ご存じのとおり、ランプが登場するまでは、時代劇などでよく見かける「行灯」、つまり火皿から油脂を吸い上げる灯心に点火し、風よけとして四方を和紙などで囲んだものが主流でした。
菜種油や魚油を用いた行灯と比べて、ランプは石油を燃料とし、また風よけの火屋はガラス製ですので、格段に明るさが違いました。
ちょうど明治天皇が肉食をされたという報道が出た1872年(明治5年)に、宮中において最初の石油ランプが灯され、その後各家庭でも広く普及することになります。まさに文明開化を象徴するような灯りだったのです。
西洋式ランプが一般にも急速に普及したのは、その明るさはもちろん、燃料の安さも要因だったようです。
1882年(明治十五年)のことですが、僧侶で著述家の佐田介石が過剰な輸入品依存を批判するために、有名な「ランプ亡国論」を唱えていることからも、十年ほどで石油ランプが日本国内で広く行き渡っていたことが伺えます。
そんなランプ商のひとりに、木村新太郎という人がいました。
露天商としてランプを引き売りするところからはじめ、浅草に「十一屋」という屋号で店を構えます。十を満点とすると、そのうえを行くという意気込みを表したものだそうです。〔十一屋商店については、KS懇話会編『洋食器物語』(叢文社、1975年)を参照。〕
その後、十一屋商店は、明治二十年ごろに現在の銀座五丁目に移りました。ちなみに、銀座で一時軒を連ねたのが、「服部時計店」つまりのちの「セイコー」です。実は、木村新太郎とセイコー創業者の服部金次郎とは、露天商時代からの仲間だったそうです。
ランプの隆盛と衰退
横浜から仕入れた舶来の高級ランプを中心に扱い、裕福な顧客層に販売することで大きく躍進した十一屋商店は、日清戦争後の好景気を受けて地方にも販売網を広げていきました。
ところが次第に、ランプの需要が頭打ちになっていきます。
というのも、石油ランプに代わって電灯の時代へと世の中が移り変わっていったからでした。明治十五年に銀座で日本初の電灯が灯りますが、本格的に一般家庭にも広がっていくのは日露戦争を経て明治四十年代に入ってのことです。
地方ではそれ以降もランプの需要は根強くありましたが、いずれ電灯に取って代わられることは明白でしたので、多くのランプ商は危機感を持っていたようです。
そのとき、彼らが目を付けた商材が洋食器だったのです。
実は、それ以前からランプ問屋はランプの輸入をメインとしつつ、ガラス製品を扱う場合もあったことから、洋食器への転換が比較的試みやすかったようです。
しかも、ランプから電灯へと移り変わっていった日露戦争後は、西洋料理店の数が増加し、一般庶民のあいだにも洋食をたべる習慣が定着し始めるなど、いわば洋食ブームが到来した時代でもありました。
このタイミングに合わせて、ランプ専門店から洋食器専門店へと鞍替えする業者が日本各地で現れ、そのひとつが十一屋商店だったのです。
十一屋の国産洋食器
十一屋の洋食器専門店への移行を主導したのは、初代を継いだ二代目木村新太郎でした。
彼は、日露戦争の勝利を記念して開催された博覧会に飾り罎などを出品することで、ランプ屋からの脱皮を広くアピールしていきました。
こうした取り組みが功を奏し、また長年銀座で高級ランプを商ってきた実績もあって、高級洋食器といえば十一屋というブランドを確立していくことになるのです。
ちなみに、「天皇の料理番」こと秋山徳蔵もその著作のなかで、「十一屋なんて言っても、いまは知る人も少ないだろうが、その頃はどうしてどうして―」「間口十間ばかりの西洋館で、じつに堂々たる構えであった」と、他を圧する当時の大店ぶりを回想しています。〔秋山徳蔵『舌 天皇の料理番が語る寄食珍味』(中央公論新社、2008年)〕
進取の気性と商売の才に長けた二代目木村新太郎は、洋食器の輸入商としてバカラをはじめとする海外の一流品を手広く扱い、宮内省や財閥から多くのホテルやレストランに至る盤石の販路を築く一方で、洋食器の国産化にも力を注ぎました。
たとえば、彼は、神輿飾りや刀剣などで代々高度な技術を継承してきた日本の金工職人たちに目をつけて、彼らを下請けにすることで金属洋食器の製作をおこないました。中村鈴太郎や本多英三らがそうした職人の筆頭として優れた商品を生み出していくのです。
その伍へつづく
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