ニッポンの洋食 その参

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、鍋・春にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

明治元年に築地ホテル館内にフレンチレストランが開業してから、そのあとを追うようにして各地でホテルレストランが生まれていきました。

2023年4月1日コラム

精養軒とチャリヘス

「西洋館ホテル」もそのひとつです。

もとは京都仏光寺の寺侍で、維新後に岩倉具視の側近として東京にでてきた北村重威が、岩倉らの支援を受けて馬場先門(かつて江戸城の日比谷門と和田倉門とのあいだにあった内郭門)の付近に創業したものです。

ところが、開業当日に銀座大火に見舞われ、築地ホテル館同様、全焼してしまいました。

大きなアクシデントに遭遇した北村でしたが、その年のうちに木挽町に仮店舗を建設します。そして翌明治6年に采女町(現在の銀座5丁目に建つ時事通信ビルの辺り)に移り、「築地精養軒ホテル」として再スタートを切ったのです。

同ホテルのレストランの初代料理長に就いたのが、スイス出身のカール・ヤコブ・ヘスでした。チューリッヒに生まれ、パリで修業後、上海を経て明治2年に来日。日本で「チャリヘス」というニックネームで呼ばれた彼は、横浜の洋菓子店に勤めていたときに、精養軒から声がかかったようです。

ところが、その直後彼は大きな事故に遭遇します。明治5年に開通したばかりの新橋・横浜間の鉄道に乗車していたところ、線路に落下して片腕を失ってしまったのです。

たいへんな怪我を負ったチャリヘスでしたが、西洋料理の日本への伝道師としての役割を担い続けます。明治7年には、パンと清涼飲料水を製造販売する「チャリ舎」という店を東京の京橋に開業し、日本におけるフランスパンの本格的な紹介者ともなるのです。

また、彼は築地精養軒とチャリ舎を通じて、後進の育成にも熱心に取り組みました。

たとえばその弟子のひとりが西尾益吉です。西尾はチャリヘスのもとで学んだあと、日本人料理人としてはじめてフランスにわたって修行。帰国後は、築地精養軒の第4代目の料理長に就任し、本場仕込みのフランス料理の数々を提供したのです。

エスコフィエと日本の弟子たち

ところで、フランスで西尾を指導したのは、「近代フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエでした。

味よりも見た目重視のそれまでのフランス料理のあり方をあらため、料理を一皿ずつ提供してじっくりと味わうコースメニューを定着させるとともに、調理作業の徹底した効率化を進めたほか、大部のレシピ本など多くの著作を執筆するなど、フランス料理全般の近代化を図った人物です。

エスコフィエは、ホテル王のセザール・リッツと協力して、各地にホテルを設立したことでも知られます。1898年開業のパリのホテル・リッツもそのひとつで、エスコフィエは料理長としてここから革新的な料理を世に送り出していったのです。

エスコフィエから直接薫陶を受けた日本人は西尾のあとにも幾人かいます。たとえば渡邉彦太郎や林玉三郎といった人々です。

渡邉は、東京丸の内にあったレストラン「中央亭」の初代料理長を務めた渡邉謙吉の息子です。中央亭は明治40年(1907年)に三菱財閥の岩崎弥之助が出資して丸の内三菱八号館に開業した、いわゆる「街場のレストラン」でした。

築地精養軒の支店として上野精養軒が明治9年に開店して以来、明治も末ごろになってくると、ホテルレストラン以外でも本格的な西洋料理を提供する店がいくつか登場します。中央亭もそのひとつでした。

また、東京三田にあった「東洋軒」も、そうした街場のレストランです。牛鍋店を営んでいた伊藤耕之進が伊藤博文らの勧めを受けて、その店の隣に明治39年に開業しました。林玉三郎はこの東洋軒出身の料理人でした。

ちなみに、東洋軒は現在三重県津市に本店を構えていますが、これは陶芸家で実業家の川喜田半泥子が東京の東洋軒の出張所として昭和3年に誘致したことが直接のきっかけです。名物となっている「ブラックカレー」も、黒色のカレーが食べたいという半泥子のリクエストに応えて誕生したものだといわれます。

ザ・天皇の料理番

さて、エスコフィエの日本人弟子の一人としてやはり忘れてはならないのが、秋山徳蔵でしょう。

明治21年(1888年)に福井に生まれた秋山は、西洋料理人を志して16歳で上京し、「華族会館」の料理部で修行を開始します。

かつて日本の欧化政策の象徴であった鹿鳴館が明治半ばに役目を終えて宮内省所管になったあと、華族の親睦団体である華族会館が建物と土地を買い取りました。秋山は鹿鳴館の伝統を引き継ぐこの場所で鍋洗いの下積みから始めたのです。

その後、秋山は築地精養軒に移りますが、そのときの料理長がフランス帰りの西尾益吉でした。当時としてはたいへん珍しい本場仕込みのシェフの存在も大きな影響を与えたのだろうと思われます。秋山はその後東洋軒を経て、明治42年、20歳のときにヨーロッパへと旅立ちました。

エスコフィエのもとで学んだ秋山は、帰国後、25歳のときに宮内省大膳寮にはいり、以後半世紀以上にわたって「天皇の料理番」を務めます。宮中晩餐会の料理は、秋山の指揮のもと、精養軒をはじめとする名店から優秀なコックたちも加わり一丸となって進められました。

これによってエスコフィエ直伝の技術や思想が各地に伝播していくことにもなり、日本のフランス料理のレベルを大きく高めることになったといわれます。

「新しい料理」と日本

秋山は1972年に宮内庁の主厨長を退きました。

築地ホテル館でルイ・ペギューが本格フレンチを日本にもたらして約百年の年月が経っていました。秋山の勇退は、日本がフランスから料理文化を吸収してきた時代のひとつの区切りであったといえます。

1970年代といえば、フランスで「ヌーベル・キュイジーヌ」(新しい料理)を追求する機運が大きく高まった時期です。そのなかで日本料理からインスピレーションを受けたフランス人シェフたちが現れるなど、文化の流れが双方向的になっていきました。

さらに1980年代以降は、世界的に活躍する日本人のフレンチシェフたちも登場し、日本と日本人がフランス料理を支える重要な一角として存在感を強めることにもなります。

こうして日本の洋食の歴史を振り返ってみると、明治以来のフランス料理の受容にさまざまな人々が複雑に関わり合いながら一歩一歩前進させ、その礎のうえに現在の姿があることがわかります。

これからも人と人とのダイナミックな交流から、「新しい料理」文化が花開いていくことになるのは間違いありません。

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。