小宇宙としての西陣 その弐

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、歴史・七夕にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

京都の7月といえば、いわずもがなの祇園祭。今年は3年ぶりに山鉾巡行がおこなわれます。

2022年7月1日コラム

山と鉾と織

前祭と後祭の両日、四条通を中心とした各通りに立ち並ぶ絢爛豪華な山と鉾が、四条烏丸を次々と出発します。まず東へとすすみ、河原町通にはいって北上、そして御池通からは新町通に向かって西進です。

曲がり角での「辻回し」は、やはりこのお祭りのハイライトのひとつでしょうか。路上に青竹を敷き詰めて水をかけ、そこに人の背丈ほどもある大きな木製の車輪をのせ、大勢の引手たちが掛け声あわせて一気に90度の方向転換をします。

まさに「動く美術館」たる山鉾の美がひときわ躍動する瞬間です。それはまた、世界中から伝わったタペストリーや絨毯、そしてもちろん西陣織の希少な作品がこの織物の都で出会い、山や鉾を飾る懸装品としてひとつに融合した奇縁を、最も強く感じさせる瞬間でもあります。

さて、山鉾が巡行するルートは京都のまさにメインストリートといえますが、実はそう遠くない昔には、ほかにもたいへん賑わった繁華街がいくつかありました。

京都の織物産業が隆盛した時代の「西陣京極」はその代表的な存在といえます。

数多くある京の碁盤の目の道のなかで最長のものといえば、北は鷹峯から南は伏見まで貫く千本通ですが、その中立売通と今出川通のあいだのあたりが西陣京極となります。

かつては西陣織関係で働く人々がくりだす盛り場として、いくつもの寄席や芝居小屋、映画館が軒を連ね、四条界隈よりも賑やかだったと聞きます。1900年に路面電車の電停が西陣京極の南の入り口、千本中立売に設けられ、その後今出川まで延伸するなどしたことで、この界隈の利便性が高まり、大きく発展することになったようです。

ちなみに、西陣京極の電停の前には、「千本座」という大きな映画館がありました。これは「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三が1901年に買い取った芝居小屋がもとになっています。彼はこの小屋所属の役者をつかって時代劇映画を日本で初めて製作しました。したがって、西陣は日本の本格的な劇映画発祥の地でもあり、改めてモノづくりにおいてきわめて先進的な地域であったことを感じさせます。

このように西陣京極界隈が京都のメインストリートといえる時期がたしかにありました。とはいえ、よく考えてみると、京に都がおかれた際に整備されたメインストリートである朱雀大路は、いまの千本通にほかなりません。

鎌倉時代に現在の場所に御所が移るまでは、千本通の二条通から一条通にかけてのあいだに大内裏がおかれていました。そのなかにちょうど西陣京極界隈が重なります。まさにこの地は日本の由緒正しき中心地だったわけです。

大舎人の綾

西陣がある京都盆地の西部地域は、都がおかれるはるか以前から織物づくりを文化の基盤とし、そして都がおかれてからも、一方で政治の中心であるとともに、織物をはじめとするさまざまなモノづくりの文化もしっかりと受けつがれ、それが20世紀にはいって一層大きく花開くことになったといえます。

先のコラムでも少し触れましたが、平安時代初期には朝廷が直営する織物工房「織部司」がありました。しかしその後、律令制の衰退とともに運営が困難となり、職人たちは独立して自ら工房を営むようになります。

彼らは大舎人町(現在の猪熊通下長者町あたり)に住まい、同業組合「大舎人座」(おおとねりざ)をつくって、「大舎人の綾」や「大宮の絹」などと呼ばれて珍重された高級絹織物を生産したのでした。

ところが、室町時代の中期、応仁の乱が十数年にわたって京を戦渦に巻き込んだことで、織物産業は壊滅してしまいます。職人たちも和泉の堺などへ逃げていきましたが、彼らの多くは長い戦が終わると京へと戻り、ふたたび織物づくりを一からはじめたのでした。

幻の「東陣織」

ところで、そもそも「西陣」という地名自体が、応仁の乱に由来することはよく知られています。

西軍の総大将であった山名宗全の陣が堀川の西、現在の山名町あたりにあった彼の邸宅におかれたということからきています。実は、この西軍の本陣跡ちかくに、京へと戻ってきた職人たちが工房をかまえ、かつての大舎人座を復活させ、織物づくりを再スタートしたのです。

一方で、西陣があれば東陣があります。東陣は現在地名としてはまったく残っていませんが、東軍をひきいた細川勝元は、堀川の東、現在の挽木町あたりにあった自らの邸宅を本陣としました。山名邸とは堀川を挟んで目と鼻の先の場所です。

ここでまことに興味深いことですが、乱後に京へと戻ってきた織物職人のなかには、この東陣跡近くに工房をかまえ、大舎人座とたもとを分かって「練貫座」(ねりぬきざ)を組織した者たちがいたのです。

このふたつの同業組合は、まさに東軍西軍を引き継いだかのように、ことごとく対立しあった仲だったようです。しかし結局、大舎人座が将軍家のひいきを勝ち得たことで、練貫座は歴史の表舞台から退くことになったのでした。

いってみれば、応仁の乱後の一時期、「東陣織」とも呼びうる織物が存在していたというわけです。

いまや、東陣と「東陣織」は跡形もありませんが、その系譜が西陣と西陣織を形づくるうえで大きな役割を果たしていたことは、ぜひとも記憶にとどめておきたい歴史の1ページといえます。

その参へつづく

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。