この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、春にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
学校でも職場でも、新たな環境のなかで、まっさらな状態からさまざまな知識や経験を積んでいこうとするときに、教え導いてくれる頼もしい存在と出会えたならば、それは一生の宝といえます。
2022年4月1日コラム
師と弟子
早いもので、今年も進学や就職など、新生活の時期となりました。
もちろん、「師匠など必要なし」という、独立独歩の方もいることでしょう。
たとえば、日本の陶芸界において当代随一の呼び声も高い辻村史郎氏のように、若いころから特定の師を持たず、完全な独学によって孤高の作品を作り続けている例もあります。
ただ、そうした場合でも忘れてはならないのは、先人の作自体が「師」であってそこから深く学ぶという過程が当然あるわけです。
古くから焼き物の世界では、親から子、師から弟子へと系譜がつながることで高度なモノづくりの技能が受け継がれてきました。そのすばらしさの反面、あまりに閉鎖的な技術継受がつづくと、これまでにない新しい価値を創造するということが難しくなってしまうこともあるように思われます。
実際、江戸期をみると、各地で焼き物づくりが普及する一方で、時を経るごとに革新的な作品があまり現れなくなるなど、桃山期に比べて芸術性の点では明らかに低迷していったところがありますが、これは新たな「血」の不足による影響が大きかったのではないかという気がします。
その後、昭和期に入って類まれな作品が次々と生まれ、日本の陶芸が再び大きく飛躍することになったのは、実のところ、日本的な「師弟関係」の枠を飛び越えた豊かな人間関係が育まれたためではないでしょうか。
つまり、北大路魯山人や川喜田半泥子など、代々の陶工の家柄ではない人びとが焼き物の世界に参入して深甚な交流をして大きな活性化を起こし、さらには古陶から学ぼうとする文化的な運動の中心の役目を果たしたためだと思われるのです。
唐九郎と半泥子
名家に生まれ、実業というまったくの異分野から齢50を超えて陶芸をはじめて、多くの名品を生みだした半泥子は、先人の作品を師とすることはもちろん、自宅をいわばサロンのような場所にして全国の陶工たちを招き、どんな若年であろうとも「先生」として遇したといわれます。そうした幾多の交友をつうじて、半泥子は彼らの技術を見て、真似して、自らのものとして吸い上げることで、新しい息吹を焼き物の歴史に吹き込むことができたといえるでしょう。
ところで、半泥子が交流した陶工のなかで、彼に最も影響を与えた「師」といえるのは、やはり加藤唐九郎ではないでしょうか。
瀬戸で代々陶工を営む家に生まれた唐九郎は、自分より二回り近く年上の半泥子に轆轤の技法や窯の作り方を教え込んだほか、各地の窯場を一緒に訪ねることまでしています。唐九郎の技量が図抜けていたことは、後年のいわゆる「永仁の壷事件」、すなわち鎌倉時代の古瀬戸として重要文化財に指定された瓶子が実は唐九郎の作であったという、世を騒がした有名な贋作事件でもうかがいしることができます。
唐九郎は惜しげもなく半泥子に陶芸に関する自らの技術を提供しましたが、一方で半泥子からはその生き方や哲学に大いに感化されました。両者は互いが師であり弟子であって持ちつ持たれつの関係であったといえます。
このように唐九郎は職人としての高い技術をもっていたわけですが、学者肌でもあって日本のみならず世界中の焼き物を研究し、透徹した審美眼と知識の持ち主でもありました。そのことは、ピカソの焼き物の芸術性をいち早く評価したのが、ほかでもない唐九郎であったことに示されているといえるでしょう。
実はあまり知られていませんが、太平洋戦争が終わった直後、海外でおこなわれた最初の日本美術の展覧会は、絵画でも彫刻でもなく、陶器を扱ったものでした。しかも、ピカソが作陶していた南仏ヴァロリスで開催され、魯山人や河井寛次郎、そして唐九郎など当時の名立たる作家の作品とともに、ピカソ自身の作品も展示されるなどしたことで、フランス中から多くの観覧者を集め、たいへんな反響を呼びました。
この展覧会を縁として、ピカソは日本側に自身の陶芸作品を贈り、それが唐九郎の故郷である瀬戸市の美術館に収蔵されることになります。すると、この作品をめぐって論争が巻き起こることになったのです。すなわち、瀬戸の陶工らの眼からすると、轆轤の成形も焼きも甘く感じられて、ピカソといえども陶器は素人ではないか、という批評がでたのです。
そうしたなか、唐九郎はピカソ擁護の論文を書き上げます。彼はその論文で、たしかに轆轤の技術は東洋のほうが勝っているところがあり、またそもそもヴァロリスの陶土が高温の焼成に耐えられないなどの困難があるが、ピカソの作品はまぎれもない芸術品であると明確に論じたのでした。日本陶芸界の第一人者がお墨付きを与えたことで、ピカソ論争は終結することになったのです。
異質との遭遇
いうまでもなく、ピカソ自身も異分野から焼き物の世界に入ってきた、いわばエイリアン的な人物でした。半泥子とは生まれ年も三つしか違いません。周りの人やモノから貪欲に養分を吸い上げて、自分のものにしてしまうところも、両者よく似ているように思います。
一方で、伝統的な陶工の家に生まれながらも、異分野の才能を受け入れ、自分が師となり弟子となることで、新たな価値の創造に加わったのが唐九郎だったといえます。半泥子とピカソという異能の才との奇縁をもった唐九郎の姿は、異質なもの同士の幸せな交流を体現しているように思われてなりません。
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