猫と軍艦 その一

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当佐々木が、歴史・端午の節句にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

東京の地で古くから現代まで焼き継がれてきた焼き物には何があるか、と問われると、案外答えに窮します。

2021年5月1日コラム

そもそもあまり陶土に恵まれていない土地柄ということもあるのかもしれません。

しかし江戸時代には、浅草周辺の墨田川流域で盛んに焼き物が作られていました。

いわゆる「今戸焼」(いまどやき)と呼ばれるものです。

関東大震災で壊滅し、幻の焼き物となった今戸焼の歴史は古く、天正年間つまり16世紀ごろまで遡ります。下総の豪族であった千葉氏の家臣たちが現在の台東区今戸町辺りに移り住んで瓦や日用雑器を作り始めたことに起源があるようです。

徳川の治世となって都市が発達するにあわせて陶房の数は増え、焼き物のバリエーションも多様になっていきました。二代将軍秀忠が土風呂師の天下一宗四郎や土器師の松平新左衛門らを江戸に呼び寄せたことをきっかけにして、茶陶づくりもはじまることになったといわれます。

一方で、素朴な土人形も早くから焼かれました。京都の伏見人形などの影響を受けた今戸人形は、江戸を代表する郷土玩具でした。

招き猫の置物も今戸焼にそのルーツがあるといわれます。

幕末のころ、横座りして手招きする猫の土人形が浅草寺三社権現の露店で売られるようになると、たいへんな評判を呼んで大流行しました。その様子の一端は、嘉永5年(1852)に歌川広重が描いた絵の中にも窺うことができます。

猫以外にも、さまざま意匠のものがつくられ、なかには雛人形もありました。

東京国立博物館には、土製の雛人形の名品が収蔵されていて、隅田河畔の窯業の往時を偲ぶことができます。

この卓越した細工が映える雛人形の作者を、三浦乾也(みうら・けんや)といいます。

幕末から明治にかけて活躍した陶工で、もとは幕臣の家柄の出でしたが、稀代の名工となった人物として知られます。乾也は、将軍の前で作陶を披露した最初の陶工として誉高かった伯父の井田吉六の手ほどきをうけて、焼き物の道に入りました。すでに12歳の頃には自作の土人形を商うなど、幼くしてその非凡な才能を示したようです。

乾也の焼き物は、たしかに今戸焼の系譜と交差するところがあるといえますが、ただその範疇にとどまるものではありません。師である吉六にしても、もとは陶土を扱う商家の奉公人で、焼き物好きが昂じて全国各地の産地をめぐり修行した異色の経歴を持ちます。

実際、乾也は若くして京焼や楽焼の高度な技術を体得し、焼き物作家として広く名を知られる存在となりました。

さらにその一方で、漆芸の世界においても秀でた才を発揮しました。その昔に小川破笠という通人が考え出した、金属や陶磁などといったさまざまな素材を使った象嵌技法、いわゆる「破笠細工」を独学で修得したのです。

乾也の漆芸作品の完成度もきわめて高く、大名などにも知られるところとなり、たとえば、あの井伊直弼から書棚の制作を依頼されています。

こうした逸話の数々だけでも乾也の作り手としての多才さ非凡さがよくわかります。しかし彼の異常な才能はここにとどまりません。

真に〈恐るべき天才〉と評するのが適切といえるでしょう。

いつしか歴史の浪の合間に埋もれて忘れさられてしまったことなのですが、実はこの三浦乾也こそ、一介の陶工でありながら、日本で最初に西洋式軍艦を作った人物なのです。

つづく

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。