この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、茶碗・和・歴史にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
世界中にはさまざまな焼き物がありますが、限られた国土のなかで実に多彩な焼き物文化が花開いたことは日本の大きな特徴だといえます。
2021年3月1日コラム
有田、瀬戸、美濃、九谷などをはじめとして、日本には60以上の産地と4000以上の窯元があるといわれます。これまでに失われてしまった焼き物の伝統を加えると、さらに多くの窯が日本各地にあったことになります。
しかしそもそも、なぜこれほど多様なのでしょう。さまざまな地質があること、つまり土や岩石の種類の多さ。それに加えて全国津々浦々でおこなわれる稲作によって水田の粘土が豊富にあるほか、薪となる森林資源にも事欠かないという、材料面で恵まれていることもあるでしょう。
こうした風土の多様性とともに、歴史的な多様性も見逃せません。周知のとおり、近世以降の伝統的な日本は、小さな国々の集合体でした。江戸時代を通じて250以上の藩があったといわれますが、ここに風土と文化がより複雑に相互作用する要因があったように思います。
戦国時代に名立たる武将たちが茶の湯に親しんで以来、茶道は武士の嗜みとなりましたが、江戸期に多くの藩が生まれたことで、それぞれの地域に根差した茶の湯文化が武家層はもちろん、市井の人々まで上下の身分を越えて形作られていくことになりました。そうしたなかで、茶陶などの焼き物も地域性を獲得していくことになった面があったといえます。
こうした日本の多様な焼き物文化の深まりを歴史的に振り返ってみて、とくに興味深く感じるのは、為政者である武士自身が自分の手で焼き物作りをすることも珍しくなかったことです。すなわち、自分で作陶し自分の敷地で焼く、本当の意味での「御庭焼」の伝統の存在です。
たとえば、有名なところでは、武将茶人として知られた上田宗箇(うえだ・そうこ)が安芸広島藩に仕えていたときに邸内の庭で自ら作陶した茶碗を焼いています。勇猛な戦国武将であった宗箇らしく、厳しさを湛えた重厚な作品がいまに伝わっています。
また、尾張徳川家では、藩主をはじめその家臣の者たちが一緒になって熱心に焼き物作りに励みました。有名な陶工を産地から招いて技術を学ぶことにも余念がなく、質の高い作品が生み出されたことで知られます。
さらに武家だけにとどまらず、たとえば高僧も手ずから陶器を作った例もあります。近江・大津の名刹である石山寺の座主尊賢僧正は、京焼の名工で自らの仏弟子でもあった仁阿弥道八(にんなみ・どうはち)から手ほどきを受けて、楽焼の茶碗や水指などを寺の敷地で制作しました。
社会の支配層に属する者が、陶工を使って好みの焼き物を焼くことは、世界的によくあることだといえますが、逆にそうした人々が自ら作り手としても活躍するということが見られたのは、日本独特の現象ではなかったかと思われます。
焼き物をめぐって上下の身分を越えた交流があり、それぞれが作家としても活躍する。いわば「焼き物の前の平等」の精神、そしてそれとクラフトマンシップとの融合が、かつての日本文化にはしっかりとあったようです。
いまは失われた、幻の焼き物である御庭焼の数々には、現在まで続く日本の焼き物の豊饒さを生み出した秘密が大いに潜んでいるのかもしれません。
※ ご覧の時期によって価格等ご案内の情報が異なる場合がございます。最新の情報は各店舗にてご確認ください。









