この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のクリエイティブ担当・佐々木が、和・立春にまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。
草津宿は中山道との分岐にもあたり、古くから交通の要衝でした。国の史跡として本陣が残るなど、いまでも宿場町の風情を色濃く感じられます。
東海道五十三次の52番目、京都からは2つ目の宿場にあたるのが、草津宿です。
その草津宿の名物といえば、「姥が餅」ではないでしょうか。信長との戦いに敗れた佐々木義賢から曾孫を預かった乳母が、その養育のために郷里の草津で餅を作って売ったのが始まりといわれます。
その後、大阪の陣の折、上方を目指す家康が茶屋に立ち寄って餅を食し、いまだ健在であった乳母を称えた逸話も手伝って、江戸期を通じ大名から庶民に至るまで旅人たちの人気の菓子となりました。
歌川広重の『東海道五十三次 草津宿』で姥が餅を商う茶屋が大きく描かれているほか、北斎の浮世絵でも取り上げられ、さらには芭蕉の句や近松門左衛門の浄瑠璃の題材などにもなっています。
爾来400年、いまでも草津の銘菓である姥が餅ですが、この餅をのせる皿として出発し、その後八代目の茶屋主人で茶人でもあった瀬川都義によって茶陶へと発展した「姥ケ餅焼」という焼き物があったことを知る人は少ないかもしれません。
都義は草津に窯を築いてさまざまな茶器を焼くとともに、楽焼の九代了入など京や信楽の陶工にも作陶を依頼していたとされ、地域の町人文化人として活躍した人物です。しかし都議の代で姥ケ餅焼は廃れ、十代目の茶屋主人が窯を再興して各地の名陶写しを一時期焼くなどしたようです。
以前、幻の焼き物として彦根藩の湖東焼について触れましたが、この姥ケ餅焼も同じく幻の焼き物といえます。
湖東焼は藩窯として、いわゆるお庭焼の系譜に連なるものですが、もとは姥ケ餅焼同様、商人がはじめた窯でした。実は商人の窯はほかにもあって、草津宿の隣の石部宿の豪商であった福島治郎兵衛らが開窯した「石部焼」もそうです。
また、大津の「膳所焼」は、膳所藩主菅沼定芳の命をきっかけにして17世紀の一時期だけ作られた、こちらも幻の焼き物として知られるものですが、その復興を目指して18世紀から19世紀にかけて焼かれた「梅林焼」や「雀ケ谷焼」は、いずれも商人が運営したものでした。
東海道や中山道をはじめ、北国街道など多くの街道が縦横に貫き、琵琶湖の水運も古くから発達した近江は、近江商人の隆盛が示すように起業家精神の発露を促す土地柄でした。さらに、京焼や信楽焼、さらには九谷焼、瀬戸焼、美濃焼といった周辺地域の産地から陶磁器の高度な技術や情報が集まってくる場所でもあり、そうした要素が化学反応を起こすようにして、江戸中期以降、いくつもの窯が現れたといえるでしょう。
多くは短期間だけ活動した窯ですが、なかには「臨湖焼」「唐崎焼」「比良焼」のように、操業者や窯の場所や開窯時期のまったくわからないものも存在します。
それにしても、琵琶湖周辺には幻の焼き物がいかに多いことでしょう。これは世界的に見てもかなり興味深い現象なのではないかと思います。
近江の焼き物の歴史については、引き続き注目してその一端をお伝えしていければと思います。
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