「豊かな暮らしをしたい!」誰もが、そう思っていることと思…

この記事はに配信されたメールマガジン「ティータイム通信」コラムの復刻版です。当時のバイヤー米山が、マイセン・ティータイム・ひな祭りにまつわるエッセイを綴りました。
※役職は配信当時のもので、現在は変更または退職している場合があります。

「豊かな暮らしをしたい!」誰もが、そう思っていることと思います。斯くいう私も、もちろん毎日そんなことを考えています。

では、具体的に「豊かな暮らし」とはどんなものでしょう?人それぞれ、求めるものも目指すものも違うので、ひとことでは表現できませんが、私はこう思います。

美しいものを美しいと感じる美味しいものを美味しいと感じる心地よいものを心地よいと感じる

5感をフルに活用して、日々楽しむこと。それができる気持ちの余裕を持てる生活。それが豊かな暮らしではないでしょうか?毎日の暮らしに潤いを与えるのは自分です。毎日がつまらないなんて思うのはもったいない!小さな喜びを積み重ねていきましょうね。(…?自分に言い聞かせてる??)

今回のコラムのテーマは「モーツァルト」2006年はモーツァルト生誕250周年。美しい音楽と美味しいお紅茶(お紅茶を10倍美味しくする器はル・ノーブルにおまかせ下さい♪)で、「豊かな暮らし」味わってみて下さい。

2006年のモーツアルト生誕250周年にちなみ、年間を通してモーツァルトの父の出身地、ドイツ・アウグスブルクでは様々なイベントが催されます。5月12日~28日の「第55回ドイツ・モーツァルトフェスト」。ドイツ国内で毎年行われるイベントですが、3年に一度アウグスブルクで開催されていて、今年はちょうどその年に当たります。

ちなみに、第52回(2003年)ケムニッツ市で開催されたフェスティバルでは「マイセン陶磁器と音楽」と名づけられた展覧会が開催されました。その年のマイセンのテーマである「ライフスタイルと伝統」を、モーツァルトの音楽に重ねあわせ、記念に「モーツァルトエディション」を発表しました。この商品はル・ノーブルでもご紹介しております。

1756年1月27日20時、オーストリアのザルツブルクで誕生。正式名はヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト。(なんて長い名前でしょう!)

モーツァルトは4歳で、宮廷音楽家の父レオポルドから本格的に音楽を習い始めます。初めての作曲が5歳の時のメヌエット。天才といわれたモーツァルト、実は生涯、一度も学校や大学に通ったことがないそうです。というのも、彼の一家は年中世界を旅しており、なんと生涯の旅に出ていた日数は3,720日、人生のほぼ3分の1を旅に費やしていた計算になります。

6歳のとき女帝マリア・テレジアに初めて謁見。父はそのときの様子を、家主ハーゲナウアーへの10月16日付の手紙でこう自慢しています。「ヴォルフェールは女帝陛下の膝に飛び乗り、首に抱きついて、何度も何度もキスをしたのです」このような幼少の頃の無邪気で奔放な性格は、大人になっても変わらないものだったようです。

1763年(7歳) 父レオポルトがザルツブルク大司教から、宮廷楽団副楽長に任命されます。寛大な伯爵は、モーツァルト一家を暖かく支援しました。モーツァルトは大司教の誕生日に、初めて音楽家として演奏をし、驚嘆をもって迎えられたのです。

1764年(8歳) 最初の交響曲を完成させ、天才少年と呼ばれる。

1769年(14歳)ザルツブルグ宮廷の楽団員となる。

1770年(14歳) イタリアのボローニャ音楽院で史上最年少の会員となる。12月26日、ミラノの大公家宮廷劇場で、弱冠14歳のモーツァルトが指揮をしたオペラ「ポントの王ミトリダーテ」の初演は、大喝采を浴び、ローマでパッラヴィッチーニ枢機卿から、教皇から授かる最高の勲章「黄金拍車」勲章を賜ります。

1777年(21歳) ザルツブルグの宮廷音楽家の仕事を辞める。

1778年(22歳) 交響曲「パリ」を作曲。母アンナ・マリアがパリで死去。

1779年(23歳) 1月17日、モーツァルトは宮廷オルガン奏者として復職。

1781年(25歳) 度重なる衝突によって、1781年6月8日には大司教との決裂が決定的となり、ついに宮廷音楽家の仕事を辞めることとなりました。モーツァルトはウィーンにとどまって、主にオペラの作曲と自作のピアノ演奏、ピアノ教師をして生計を立てようと試みます。

1786年(30歳) 5月1日にはブルク劇場で「フィガロの結婚」KV 492を初演。

1787年(31歳) 「フィガロの結婚」上演と「ドン・ジョヴァンニ」KV 527初演のため、プラハへ。その後もモーツァルトは、ドレスデン、マイセン、ポツダムを経由して、プロイセン国王の宮廷があるベルリンへ向かう旅に出、そこで宮廷作曲家に任命されています。度重なる旅行と社交への負担によって、モーツァルトは余儀なく、友人への金の無心を繰り返します。

1790年(34歳) 生涯最後となる2回の旅行は、レオポルト2世の戴冠式が行われるフランクフルトとプラハへ向かう旅でした。プラハでは1791年9月6日に戴冠式用オペラ「皇帝ティートの慈悲」KV 621が初演されています。

1791年(35歳) 9月30日、「魔笛」KV 620を初演。モーツァルトはピアノを弾きながら指揮をしました。7月 見知らぬ男に「レクイエム」作曲を依頼されます。病と死の予感が満ちる中で、モーツァルトは、最後の作品となるレクイエムKV 626(未完)の作曲をはじめます。

1791年12月5日、午前0時55分、ウィーンのラウエンシュタイン通り8にあった自宅で死去、享年35歳。死因は「急性の粟粒熱」といわれています。(この死因には諸説あり、真相は定かではありません)12月6日、ウィーンの聖マルクス墓地に埋葬され、今もこの地で眠り続けています。

モーツァルトが天才と言われた所以

* 4歳か5歳の頃、父の友人の弾くバイオリンの音が8分の1音低いと指摘。(8分の1音とは、半音をさらに四等分した音の高さ。)

* 9歳の時、誰も気づかない譜面の間違いを一目で指摘。

* 14歳の時、イタリアのシスティーナ礼拝堂で門外不出のアレッグリ「ミゼレレ」を一度聞いただけで、正確に譜面を書き写してしまいました。

* 作曲のスピードがとにかく早い。こんな逸話も…

オペラ「ドン・ジョバンニ」は、演奏会前日にまだ序曲ができあがっておらず、真夜中12時過ぎから作曲を始めたが、3時頃には眠ってしまった。しかし、翌朝7時に妻が目を覚ました時にはすでに出来上がっていたそう。

ユーモアあふれる曲作り(天才の余裕?)

* 「音楽の冗談」という曲では、わざと間違った音を入れて人々を困惑させ楽しんだとか。

* バイオリン二重奏曲の中に、二人のバイオリニストが1枚の譜面を挟んで同時に合奏できるようにするため、逆さまにしても演奏できる譜面を作ったものがあるそうです。(ご存知でした?)

正体不明の男がモーツァルトに死者のためのミサ曲「レクイエム」の作曲依頼をしたことはあまりにも有名な伝説。映画「アマデウス」では死神に扮したこの男こそ、かつて、宮廷音楽家として栄光の絶頂にいたサリエリとされていましたが、実はこの男の正体はモーツァルトの死後に判明していたのです。

貴族のヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵というこの人物、自分に創作的な才能がないので、作曲家の作品を購入し写譜して使用するという方法をとっていたそう。

結局この「レクイエム」は未完だったのですが、弟子のジュースマイヤーが補筆完成させ、それを受け取ったヴァルゼックは1793年12月に近郊のウィーナー・ノイシュタットで演奏し、オーケストラ総譜に「ヴァルゼック伯爵作のレクイエム」と直筆でサインまで残すという、なんともお粗末なお話でした。

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「器の愉しさを、もっと身近に」という想いを胸に、代々のスタッフがバトンを繋いできた食卓のエッセイ集です。ある時は 古典文学に想いを馳せ、ある時はイースターの食卓を飾り付ける。京都発、器が大好きな私たちの、ちょっとマニアックで愛おしい「器と文化愛」が詰まったコラムたち。数十年にわたり、メールマガジンを通じて数万人の器ファンに届けられたコラムを復刻しています。