1904年9月23日、数年間の闘病生活を経てエミール・ガレは死去しました。ガレの命を58歳で奪った病魔は「白血病」でした。残された夫人は、娘婿で考古学者のナンシー大学教授ポール・ベルドリゼを家業の社長に指名し、工場の操業を継続する決意を固めました。生前のエミール・ガレが率いたガレ・クリスタル社と、それに匹敵する規模をもった同郷のドーム社は、1901年に結成されたアールヌーヴォー・ナンシー派で、それぞれ会長と副会長のポストについた経緯からも分かるように、この地域のガラス産業をけん引する車の両輪ともいうべき関係にありました。
生活必需品ではなく、どちらかといえば贅沢なインテリア置物である奢侈品の生産に重点を置いた両社の財務状況は、いずれも安泰というわけではなく、ガレの場合はコストのかかる高級製品の生産が主流になってきた1885年から87年にかけて財政危機に陥り、その結果として安価な量産グラスの製造に着手するようになっていきました。ドーム家も創業当初からの負債に長く苦しめられていました。それだけに両社の商売上の競争は激しいものがありましたが、技術革新と新たな発想の観点からみると、この競争は実り多い結果をもたらしたようです。1904年のガレの死後、彼の工場を継承した遺族は、製造コストが高くつく製品群を生産ラインから一掃してしまい、その結果ドーム社がナンシーにおけるガラス産業の花形の地位を占めるようになりました。ガレが得意とした高度な技術を駆使した作品の製造は、ガレの没後はドームの独壇場とはなりましたが、その技術とデザイン力は現代まで継承されています。
ガレの生前、手間をかけて製造し、高価格で販売した創作の頂点に君臨する少数のガラスに羨望と称賛の声が送られ、高値で取引されるのは当然と言えますが、指導者の遺志を引き継ぎ、デザインの質を落とすことなく栄光の名前を刻まれて世界中に輸出されたガラスは、現在でも人々に愛蔵され、日々その手で大切にいつくしまれ、生活の場で潤いを与え続ける存在であり続けています。
1931年のガレ商会の解散と同時にガレの技法も途絶えたとされていましたが、フランスより遠く離れた、ヨーロッパ最長の川・ドナウ河の最後の国ルーマニアでの街「ブゾウ(Buzou)」で、現在でも彼のガラス技法が受け継がれています。かの地にガレのガラス製法が根付いた経緯については諸説ありますが、ガレの時代から変わらないアシッドエッチング(酸彫り)によるカメオ技法を駆使しながら、独特の色の深み、幻想的な表情を持った作品を今の時代に生み出し続けています。
|