人々を魅了した「SATSUMA」
薩摩焼は桃山時代、島津氏の第17代藩主「島津義弘」が朝鮮半島より連れ帰った陶工たちによって薩摩や大隈(鹿児島県)の窯で始められた焼物で、藩主の御用窯であった苗代川窯では、幕末になると金彩色絵の絢爛豪華な焼物が作られるようになりました。
江戸時代最後の年(慶応3・1867年)、日本が初めて参加した万国博覧会(パリ万博)では、単独で参加した薩摩藩が薩摩焼を出品し、高い評価を受けます。日本が国家として初めて参加した際も、大量に金彩色絵の薩摩焼を出品します。この時の作品は飛ぶように売れ、薩摩焼はまだ工業製品を持たなかった当時の日本にとって、他の陶磁器や七宝、金工と並ぶ日本の輸出商品の花形へと育っていきました。その後、京都・大阪・名古屋・東京・横浜などでも薩摩風の絵付けの焼きものが流行し、その多くが輸出されることで海外における「SATSUMA」は日本陶磁の一ブランドとして定着することになりました。
京の都に生まれた幻の器「京薩摩」
京都では、粟田焼として名高い三条粟田口の窯元で明治初期から大正期にかけて大量に薩摩焼が生産され、京薩摩と呼ばれていました。本薩摩と比べて、より繊細で雅やかなところが特徴で、文化の拠点だった京都ならではの美的センスが活かされた美しい構図でたちまち欧米人達を虜にし、一時期は生産量で本薩摩を凌ぐ程でした。
しかし、その後日本は急速に工業化を推し進め、工芸から工業への人材のシフト、人件費の高騰、意匠のマンネリ化などもあり、京薩摩はわずか数十年で急速に衰退していったのでした。
蘇る京の美 |