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有田焼|日本磁器400年の歴史と伝統工芸・縄文から続く日本の器

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Luxury Selection vol.23 日本の磁器 有田焼

日本のやきものは縄文時代の土器にはじまります。
これは世界のやきものの歴史の中でも、かなり早くから焼き始めていたという事になります。
しかし、その後は1万年以上もの間は土器だけの時代が続きひいては
日本のやきもの史の後世に至るまで、様々な影響を残すことになるのです。

Luxury Selection vol.23 日本の磁器 有田焼

土器から磁器へ

中国や西アジアでは、紀元前に磁器の生産が始まっていたにもかかわらず、日本で磁器の生産が起こったのは、実に17世紀に入ってからの事でした。日本では、磁器の原料となるカオリンの産出がほとんど無かったことも原因と考えられますが、もっと丈夫で緻密な、新しいやきものの世界へと展開する為の、技術開発が殆どなされなかったのです。そのかわりに、日本人は持てる限りの知性と感性を、造形美術として表現しました。縄文土器はフォルムよりデザインを優先させ、原始美術の中でも日本の縄文土器は群を抜いていました。このような縄文土器の造形表現は、日本人が古代より、芸術に優れた感覚を持つ民族であることを証明しているといえます。では、どうして有田で磁器生産が可能になったのでしょうか?
まず始めに日本に入って来たのは、朝鮮文化の血脈でした。二度に渡る豊臣秀吉の朝鮮出兵──その撤兵の際、諸藩が連れて帰って来た朝鮮人陶工が大きな役割を果たしたと言われています。

日本磁器の目覚め

その陶工の一人が、有田焼の陶祖と崇められる李参平です。彼は、韓国忠清南道鶏竜山金江の人で、後に金ヶ江姓を名乗り、子孫は今に続いています。李参平は、現在の有田泉山で陶石(カオリン)を発見、天狗谷窯を築いて、日本で初めて白磁を焼いたとされる人物です。しかし、有田の発展に寄与したのは朝鮮人陶工だけではありませんでした。それには日本の商人と中国人製陶技術者の存在が欠かせませんでした。伊万里の染付には、実にふんだんなコバルト(青色)が使用されています。一方、朝鮮ではコバルトはほとんど産出されておらず、当時コバルトは大変貴重な事から、これらのコバルトは中国からの輸入品と考えられました。また、窯跡の発掘陶片から見ても、初期の伊万里焼は朝鮮の窯ではなく、当時世界最大の磁器窯であった、中国・景徳鎮窯から影響を受けたと考えられています。原料を輸入したり、世界に販路を持っていた景徳鎮窯を手本にしている事から、日本の商人が磁器の興隆に介在していることは明らかでした。今でも有田に残る赤絵町は、赤絵の絵付けだけを生業にした町です。この事からも分かりますが、磁器の生産は、一人の作家がすべて仕上げる事が多い土器とは違い、分業が可能でした。逆にいえば、一定した品質の製品を量産できる事がメリットであり、産業ベースに乗せられる事が磁器の長所だったのです。

世界に羽ばたく伊万里

有田で磁器の生産が始まった頃には、日本にも中国から景徳鎮窯の良い物が多く入って来るようになりました。磁器人気の主流が、それまでの白磁から染付へと移っていたため、磁器の窯が産業として成立する為には、商品になる染付を作る必要がありました。さらには、わずか30年程の間で、色絵の生産も始まります。酒井田柿右衛門が中国伝来の色絵の技法を教わったのは1647年頃で、これも商人の口利きで実現しました。特に初代の柿右衛門は技巧家であり、その後も良工が続きます。商人たちも、彼らに頼めば成果が出ると知っていた為有田では柿右衛門の家が別格となり、伊万里焼の華麗な色絵の世界が展開していきました。1659年は有田の歴史にとって画期的な年でした。オランダの東インド会社から大量の注文が舞い込んだのです。中国清朝の方針から、中国と交易が不可能になったオランダ人達は、当時すでに景徳鎮の高級磁器と同レベルにあった伊万里焼に注目していたのでした。その期待に応え、陶工達は努力を重ねて優れた作品を生み出し、伊万里の名を世界中に広める事となりました。かつては景徳鎮窯の模倣でしかなかった伊万里焼きにも、少しずつ自由な創意が加わるようになりました。器形は西洋人の好みに合わせながら、優美な図柄は日本人の美意識に基づくものを生産していったのです。

鮮やかな「金襴手」の登場

商人達は、輸出磁器の刺激を受けて高まりつつある、国内需要向けの生産も進めました。これらは、輸出向けの「柿右衛門様式」に対し「古九谷様式」と言われるものです。「古九谷様式」は、まず器の文様を描き、その周囲をすべて細かい幾何学模様で埋めてしまうという構図です。
この構図は、17世紀前半に景徳鎮窯が好んで行ったものでした。この構図はヨーロッパに輸出されるべく作られた「柿右衛門様式」の意匠にもありますが、純白の端正な素地に、素晴らしく赤の冴える美しい色を使った「柿右衛門様式」とは対照的に、「古九谷様式」の場合は素地の良否は無頓着、絵具は深々とした緑、黄色が中心にして赤はごく控えめという、「柿右衛門様式」とは際立った相違を見せ、国内向けと海外向けの作風を区別させていました。しかし、この二つの様式は1690年代に始まる、金襴手の登場により主役を奪われ、急速に衰退してしまいます。1690年代といえば、時代は元禄。民衆文化であり、商人が力をつけ、ファッショナブルな服装、衣装が花開いた時代でした。有田焼といえば、赤と金彩が実に華麗で豪華な焼き物を目にすることがありますが、これが典型的な金襴手です。まさに成金趣味を絵に描いたような物でした。経済力を付けた地方の豪農が、文化の主役に躍り出た際に、一番心を寄せたのがこの金襴手だったのです。

幕末の大ヒット商品に

実力を持った商人や市民は、このキンキラした金襴手を、それまで侘びさびの世界、凍りつく様な美学を信奉していた茶の世界にまで持ち込みました。この市場の変化を受けた伊万里は柔軟に受け止め、国内向けとヨーロッパ向けに、独自の金襴手を作り出します。ヨーロッパでも17世紀末から18世紀は、まさに後期バロック全盛期。優れた金襴手は猛烈な勢いでヨーロッパに輸出されていきました。金襴手のモチーフは風俗画、花鳥図、山水画など、日本的なモチーフが多いのですが、ヨーロッパ人が初めて日本のやきものとして認識したのはこの金襴手だったのです。それまでにも、柿右衛門様式が輸出されていましたが、これらはヨーロッパの人々にとって中国の焼き物と区別されていませんでした。
当時、一番の実力者であるドイツのアウグスト強王は、並ぶもののない日本陶磁のコレクターとして知られ、二万数千点もの日本陶磁を「日本宮」と呼ばれる宮殿に飾ろうとしましたが、その収集目録の中でさえも、柿右衛門様式は中国陶磁と同じ項目とされており、一方の金襴手は日本のやきものの項目に区別されているのでした。この様に、華やかな赤と金の豪華な文様、大きく立派な金襴手は、日本でもヨーロッパでも大反響でした。作れば売れるという金襴手はIMARIの象徴となり、有田の伊万里焼は外貨を稼ぐ幕末の大ヒット商品だったのです。

初代舘林古琳庵は、昭和4年に有田の名窯柿右衛門窯にて絵師として従事。退職するまで50年間有田焼の名品を手掛け、退職後は確立された延宝様式の技術保存や後継者育成にもに力を注いできました。二代目古琳庵は、古琳庵様式として独自の様式の確立に専念、職人と共にその伝統を守り、次々と斬新な器を世に送り出しています。日本をはじめ、遠くアメリカやヨーロッパなど、愛陶家より高い評価を得ている、有田の窯元です。

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