Luxury Selection vol.84 マイセンの創世期
Luxury Selection vol.84 マイセンの創世期
ヨーロッパの磁器の歴史は、そのままマイセンの歴史と言っても過言ではありません。17世紀、東インド会社を通してもたらされた中国や日本の美しい磁器は、当時の王侯貴族たちを魅了しました。この透き通るような白い磁器をなんとか自国で生産できないものか?陶磁器製作の秘密を巡り、ヨーロッパ各国では試行錯誤を繰り返していました。
中世のヨーロッパでは、錬金術師が跳梁跋扈していました。
彼らの目的はそこらへんにあるなんでもない物質より、金塊やら、不老長寿の薬やら、ともかく金になる値打ちのあるものを作り出し大儲けすることにありました。中には純粋に科学的好奇心を持って研究している者もいたと思われますが、多くの錬金術師は明らかに詐欺師でした。黄金を作るためには資金は欠かせないという理由で、資金を提供してくれるスポンサーを探すことが彼らの最大の目的でした。
1.Johann Friedrich Böttger
ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー
ヨーロッパ初の白色磁器を開発したベドガーも、チンキ剤を黄金に変えるという怪しげな触れ込みで自分自身を売り込んでいた錬金術師でした。1682年に生を受けたベドガーは少年の頃にベルリンで錬金術を学び、そしてその当時ベルリンを支配していたプロイセンのフリードリヒ王に売りこみに行きますがあえなく失敗します。その後、彼は金へのこだわりを捨て、同じくらい高い価値を持っていた良質の白い磁器を作ると、ザクセンのアウグスト強王に申し入れ、王に雇われました。雇われるとは言っても、ベドガーは逮捕連行という形でドレスデンに連れてこられているので、かなり胡散臭い人物であったことは間違いないようです。しかしながら、彼は並みの錬金術師ではありませんでした。王は開発情報の漏えいを防ぐため、ベドガーを城塞に幽閉します。若いベドガーにとっては、不満のたまる処置であったと思われますが、研究の環境としては最適であったようです。1707年11月に彼は最初の手掛かりとなる器の製作に成功します。ですが、これは白には程遠い赤黒いものでした。さらに実験が続いた1710年の1月15日、彼は遂に透き通る白い磁器を窯から取り出すことに成功しました。その8日後の1月23日には王の布告により、ドレスデンに磁器工房が設立されます。また同年の6月6日にはその工房はマイセンのアルブレヒト城に移されました。ヨーロッパ初の白色磁器を開発できたことにより間違いなくアウグスト強王の財政は潤い、マイセンは名窯として輝かしい歴史をはじめることとなります。しかし、その白色磁器を創りだした錬金術師が幸せな人生を送れたかというと、そうでもありませんでした。アウグスト強王は、ヨーロッパ初の白色磁器完成の秘密を独占するためにベドガーを城に軟禁しました。ベドガーは自由を奪われ、アルコールにおぼれ、失意の上に37歳の若さでこの世を去ったのです。
2.Johann Gregorius Höroldt
ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト
ベドガーの不幸と引き換えに、マイセン窯の技術はさらに向上し、名窯としての地位は高まる一方でした。1720年、ウィーンから招かれた絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトによってマイセン窯の名声は不動のものとなります。17世紀以降、東インド会社の活動が盛んであった時代、ヨーロッパ各国の王侯貴族は、清澄な染付や鮮やかな柿右衛門の中国や日本の磁器をこぞって蒐集しており、それはシノワズリという中国趣味の様式を生み出しましたが、ヘロルトはそれをいち早くとりいれ、流行の波に乗りました。当時良く作られていた菊や牡丹などの東洋のモチーフを使った「インドの花」シリーズは、今でも人気があります。
ベドガーが白磁焼成に成功する前に作っていた焼き物は赤茶色をしていました。鉄を含んだ茶褐色のの土で作られており、白磁焼成の成功以降、作られなくなっていましたが、20世紀になると彫塑に適した特性が見直され、再び作品が作られるようになりました。
「インドの華」は、カラーも多彩で、絶大な人気を得ているマイセンの定番シリーズです。
3.Johann Joachim Kändler
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー
シノワズリの時代を経て、次にマイセン窯の第2の作風を作り上げたのが、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーです。宮廷彫刻師であったケンドラーは、主任塑像師として迎えられ、磁器の像(フィギュリン)を作り始めます。本物さながらの動物や、流麗なロココ調の人形は焼き物としての技術の高さからも称賛を浴びることになりました。
ヨーロッパ最高の磁器と称されるマイセンの創成期を作った若き3人の天才たち。
彼らの作品は現代でも人気のコレクションとして作られ続けています。
≪ これまでのマイセン特集一覧 ≫
日本の柿右衛門式の「竹虎図」を模した絵柄です。1730年ごろに盛んに作られたもので、当初は宮廷以外に使用を禁じられ珍重されていました。
1737年から1741年にかけて、ザクセンの財務大臣であったブリュール伯爵の注文で作られました。ブリュールという名前が湿地に由来することから水がテーマになっており、スワン、魚、かたつむりなどが立体的に表現されています。
イタリア喜劇はマイセンの初期から良く作られたモチーフでした。17~18世紀のドイツにおいてイタリア喜劇団は人気が高く、アウグスト強王や従弟のアドルフ2世も大変いれあげており、マイセンの造形家たちはこのモチーフを好んでとりあげました。
アウグスト強王のお抱えの楽士たちの下手な演奏を揶揄したものといわれることもありますが当時の風刺画に猿を擬人化したものが多いことから1つの流行の表現であったと思われます。
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