クリムトの家は貧しく、一家はクリスマスにも十分なパンが無いほどでした。そのような環境では高等教育を受けることはとてもできず、長男であるクリムトには一日でも早く生活の糧を稼ぐ義務がありました。クリムトが14歳の時、彼は奨学金を得てウィーンのオーストリア芸術産業美術館付属の工芸美術学校に入学します。その後、1年遅れで同じ学校に入学してきた弟のエルンストとともに、空き時間には写真をもとに肖像画を描き、1枚6グリデン(当時レストランの定食が1グリデン)で売るなどして、家計を助けました。
クリムトと弟は、また美術学校の教授であったフェルディナンド・ラウフベルガーの指示のもと、建築装飾の仕事にも従事しました。当時、ウィーンでは国を挙げてオーストリア・ハンガリー帝国の首都にふさわしい街づくりが進められていました。撤去された中世以来の城壁のあとは近代的な環状道路となり、その環状道路に沿って多くの公共建造物や、貴族、ブルジョワたちの豪邸が建設されていきました。ラウフベルガーはそうした建築物の装飾を請け負う、いわゆる上流階級のお抱え画家でした。一家の生活費を稼ぐため、中世さながらに王家や貴族、富豪のお抱えになり、その肖像画や装飾画を描く宮廷画家のような仕事が、クリムトの芸術家としての出発点でした。
こうした職人としての生活はクリムトが18歳の時に、師でもあり親方でもあったラウフベルガーが亡くなってからも続き、それから3年後、工芸芸術学校を離れたクリムトは、同じくラウフベルガーの下で学んでいたフランツ・マッチュと3人で、芸術をビジネスにする「芸術家コンパニー(キュンストラー・コンパニー)」を設立します。この会社は大変繁盛し、1888年にはウィーンにおける演劇の殿堂ブルグ劇場の装飾壁画を完成、クリムトは金の功労十字勲章を授与されるなどの名誉も得ました。また、1890年にはウィーン美術史美術館の階段ホールの内装も請け負います。この時クリムトは弱冠28歳。国家をパトロンとした若者の将来は順風満帆であるかのようでした。