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ヘレンド創設期の物語|19世紀ハンガリー名窯の始まりと歩み

Luxury Selection vol.17 ヘレンド ハンガリーの名窯 創設期の物語 メインビジュアル

Luxury Selection vol.17 ヘレンド ハンガリーの名窯 創設期の物語

ヘレンド窯が創設された19世紀中ごろのハンガリーは、他のヨーロッパ諸国と比べると後進国であり、農業が国内経済の最大のシェアを占め、農民は中世の名残をとどめる封建的な環境で、簡単な農具を使って耕作していました。このような状況を打破するため、国内の有識者たちである下級貴族は、仕事場や工場の建設のための信用取引の樹立や、農奴解放を実現させるために率先して改革に乗り出しましたが、ハンガリーがオーストリアの支配下にあるという状況のもとでは、彼らの健闘も成果がありませんでした。当時ヨーロッパの磁器工場は、ほとんどが君主の庇護を受けていました。マイセン窯は強力なザクセン選帝侯により設立され、他のドイツ選帝侯や、カポディモンテ窯を建設したカルロ4世らが、アウグスト王の磁器産業推進策に追随しました。また、もともと民間企業によって始められた磁器窯も、例えばセーブル窯は1753年からフランスの、ベルリン窯は1763年以降プロシアの、ウィーン窯は1744年以来王室、帝室の磁器製作所となり、王国帝国の管理下におかれるようになりました。ロスチャイルドバードロスチャイルド家に収めた事から始まるこのシリーズ。囀りが聴こえてきそうな鳥の絵柄は6種類とされており、マスターぺインターの確かな筆運びが堪能できるシリーズです。故ダイアナ元妃が成婚前に揃えたパターンとしても知られています。

Luxury Selection vol.17 ヘレンド ハンガリーの名窯 創設期の物語

1709年、錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベトガーが、ザクセン選帝侯アウグスト2世の監視下で硬質磁器素材の原料を発見すると、その翌年の1710年、アウグスト2世はドイツのマイセンに磁器工場を設立しました。しかし、アウグスト2世が門外不出としたにもかかわらず、磁器製造の秘法は、またたくまにヨーロッパ中に広まり、18世紀の初めには、ヨーロッパ全土に磁器工場が次々と開設されました。ウィーン窯(1717年)、パリ近郊のセーブル窯(1737年)、南イタリア・ナポリの隣町、カポディモンテ窯(1743年)などがそれにあたります。ヘレンドはこれより100年ほど遅れて、1826年ごろに磁器生産を開始したといわれています。ヘレンド窯創業の立ち遅れについては、自国オーストリアの産業を保護するために、ハンガリー経済の発展を阻止する関税制度を設ける等、自国の利益次第で望むままに帝国を支配することができたオーストリア皇帝(兼ハンガリー王)によって阻まれたからでした。両国はハプスブルクという同一の王家のもとにありました。ヴィクトリア・ブーケ蝶や牡丹の花が鮮やかに描かれた中国趣味(シノワズリ)の香るシリーズ。1851年、ロンドンで開催された博覧会で、ヴィクトリア女王がこのシリーズを見染め愛用したというエピソードからその名がつけられました。また、1点ずつ絵柄が異なるのも、ハンドペイントの魅力です。

一方、ヘレンド窯の場合、磁器を製作し始めたのはビンツェ・シュティングルという職人でしたが、まもなく資金不足に陥り、その後商人のモール・フィッシャーが受け継ぎました。ハンガリーには磁器生産に不可欠な原土のカオリン土は産出されず、それらはボヘミアから取り寄せていました。ヘレンド窯が磁器生産のために国内であてにできるものは、当時の燃料であった木材の森林と、その土地の手工業の製陶技術でした。また1848年には、ハンガリー独立運動がおこり、この運動の指導者たちは、ハンガリーの工業とその振興を図ることこそが、国の独立を可能にする経済の基盤となると考えました。そこで「産業博覧会」というハンガリー製品の定期審査会を創始し、ヘレンドは博覧会に常時出品、新作を発表しました。1848年の革命に引き続いて起こった独立戦争は敗北に終わり、ハンガリーは自治権を再び喪失しましたが、ハンガリー産業の「大使」であるヘレンドは、次第に国際的な評価を受けるようになりました。西安の黄三友(松竹梅)のアレンジしたもの。松・竹は冬にも色を変えず、梅は寒中に花を咲かせることで高潔、節操を表しています。取っ手の唐子人形は、「マンダリン(中国・清朝の官吏のこと)」と呼ばれ、人気のモチーフです。

1851年、世界の産業生産を審査奨励する「第一回万国博覧会」がロンドンで開催されました。この場において、ヴィクトリア女王自らが、蝶文や花文で装飾されたヘレンドのディナー・セット「ヴィクトリア」を注文したことは有名な話です。現在でもこのセットは、同じ名称で呼ばれています。その2年後にニューヨークで開かれた「国際産業博」では、ヘレンドの製品は3日で完売しています。1867年の「パリ万国博」と1873年の「ウィーン万国博」では受賞を果たし、特にパリでは、モール・フィッシャーにレジオン・ドヌール勲章が授与されました。19世紀の後半、ヘレンドは世界に向けてハンガリー産業を代表するブランドとなり、ヘレンド窯は1840年代から生産の安定期に入ります。マイセン窯、セーブル窯などのヨーロッパの大工場が凋落しつつあった1851年から1873年にかけて、ヘレンドは最盛期に達しました。ミラマーレ1865年、後にメキシコ皇帝となったハプスブルグ家のマクシミリアンのために作られたパターン。ミラマーレとは、イタリアにある彼の別荘の名です。

19世紀の後半には、ヘレンドが模範としたヨーロッパのマイセン窯などの偉大な先駆の諸窯は、すでに高度な磁器生産技術と膨らみゆく中流階級の顧客層をにらみ、大量生産に備えつつあり、磁器の成形や絵付けの芸術性が失われつつありましたが、ヘレンドは逆の立場をとりました。フィッシャーは、19世紀の更新国・ハンガリーで、西洋の先進国から見ると古風で時代遅れな手工業生産を続けました。顧客は都会に住む人々でも富裕な中産階級でもなく、公爵家や、伯爵家、外国では王侯などの貴族階級でした。ヘレンドの仕事は、彼らが先祖から受け継いだディナー・セットの割れたものを交換したり、なくしたものを補充することでした。漢や明時代の中国や、同時期の日本、ルイ15世の治世下のセーブル窯、フリードリヒ・アウグスト2世時代のマイセン窯など、多くの工場が伝統的様式を放棄したため、代々伝わる家宝のディナー・セットを補充できない貴族が大勢おり、彼らがその製作をヘレンドに委ねたことは、事業の大きな助けとなりました。ヘレンドはこれらの工場の全盛期に最高の域に達したジャンルの、完璧な職人技だけを吸収しようと努めました。そして、出来上がった作品に常に目立つように、ヘレンドの名を入れたハンガリーの国章をつけて出荷しました(現在のバックスタンプの中央の盾状の紋章はハンガリーの国旗を象徴しており、ハンガリー国家で古くから使われているもので、ヘレンドは1842年以来使用を許可されている)。トゥッピーニの角笛ミニチュアール(細密画)の代表作。完成までに4回焼成する非常に手の込んだ逸品です。赤いうろこ模様の部分にも、細かい技が駆使されています。あらゆる高等技術が惜しみなく施されています。代々受け継いでいける宝物のような逸品です。

ヘレンドはオリジナルと変わらぬ品質のものを製作したため、とりわけ賞賛をあつめました。このような仕事を通じてヘレンド窯の職人たちは、当時工場で絵付け師の先頭に立っていたフィッシャーを中心に、あらゆる様式のノウハウを学んでいき、様々な出所の図柄や装飾を寄せ集め、混合して使うようになり、オリジナルのヘレンドの名前をつけたシリーズが生み出されました。フィッシャーの芸術家としての熱意は実を結びましたが、1870年代に経営権が彼の息子たちに移った際、倒産の憂き目を見ました。その要因は、それまで工場の繁栄を支えていた貴族からの注文が途絶えてしまったためでした。当時のヘレンドには新しい顧客を開拓する力は無く、再びヘレンドが復活するのは、中産階級向けに商品を開発するようになる20世紀前半に入ってからのことでした。ロスチャイルドバードブルーロスチャイルド家に収めた事から始まるこのシリーズ。木の枝にかかっている首飾りは、ヴィクトリア女王のエピソードに基づいたもの。見逃せないポイントです。

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